「自分が高齢になるということ」
和田 秀樹 著(新講社)
この本は、「ボケ」という言葉が随所に使われています。
「認知症」に変わる前に出版された本なのかな、と思っていたら、そうではありませんでした。
……名称に対してあまり過敏になると言葉狩りの側面が出てしまい、かえってボケの愛すべき部分が忘れられてしまうような気がします。
私の患者の高齢者も、「このごろボケて困ります」と言うことはありますが、「認知症になってしまって」とは言いません。
……85歳を過ぎればほとんどの人の脳にはアルツハイマー型の変化が起こるのですから、早いか遅いか、あるいは程度の差はあっても高齢になるというのは認知症ゾーンに入るということです。
そのゾーン全体をボケという言葉でふわっと括ってしまい、能力の低下を悲しむだけでなく、それを受け入れ、楽しむぐらいの気持ちになったほうが幸せな人生ではないでしょうか。
そこでもし、ボケを恐れたり蔑視するような気持になると、結局は自分を不幸にしてしまいます。
「私もやっとボケの仲間入り」くらいの気持ちでいたほうが、自分が高齢になることを穏やかに受け入れることができるような気がします。
因みに英語では、dementia と呼びます。dementia とは「痴呆」のことです。
日本でもこの呼び方があって、いくらなんでもこの名称は侮辱的だというので認知症と改まった経緯があるのですが、
英語ではいまも dementia 「痴呆」のままです。
ここでは、「ボケ」という言葉は、このスタンスで使われています。
高齢者との付き合い方
🔹 ボケた人に無用なストレスを与えてはいけません
「ぼんやりしていてもボケが進んでしまうから、いろいろ話しかけて頭を使わせよう」➡
「おばあぁちゃん、今日は何日だっけ?」
「何曜日だかわかる?」
このような
★ 質問調の問いかけはやめましょう。
「自分の誕生日ぐらい覚えているよね」 NG
🖋 無用なストレスをあたえることになりかねないからです。
💡 子供に質問されて答えられなければ、本人は不安になります。自信もなくし、自分ができなくなったことだけを気にします。
子供も同じで、親のできなくなったこと、失われてしまったものだけ見てしまいます。
認知症になってもプライドはありますから、親は怒りや不安の感情に満たされます。
それが暴言や徘徊となって表れれば、症状はますます進んでしまうことになります。
🔹 その人の「変わらない部分」と付き合っていこう
近所の人から見れば、礼儀正しく、挨拶のときは立ち止ってきちんとお辞儀をし、「おはようございます」「暖かいですね」と短い言葉もかけてくれます。
でも「認知症」でした。
家族は近所の人にきちんと話しています。
いつもと違う場所で見かけたら声をかけてくださいとも伝えてあります。
「えー? だってあんなにはっきりしてるのに」
「庭先の花の名前も教えてくれますよ」
つまり、どんなにボケても依然と変わらない部分があります。
その部分と付き合っている限り、本人も安心しますし、周囲の人も穏やかに接することができるのです。
なにもわざわざ、できなくなったことに目を向けたり、
そのできなくなったことを本人に気づかせるような
接し方をしなくてもいいということです。
……できることを楽しんでいる限り、どんなにボケても本人はゆったり、のんびりしています。幸せそうにも見えます。
その様子を見て、家族や周囲の人が
「ボケもいいもんだな」と思えたときに、自分が高齢になることへの不安は薄れていくはずです。
🔹 長く生きてきた人にはたくさんの「物語」があります
「お年寄りの昔話」のイメージ
・・・同じ話の繰り返し、延々と続いてキリがない……。
なにせたくさんの物語がありました。
楽しかったこと、苦労したこと、美味しかったもの。忘れられない出来事、仲良しだった人のこと、……さまざまな思い出が頭の中には詰まっています。
これは、認知症になっても同じです。
高齢者の思い出話を聞くというのは、世代間のギャップを埋めることにもなります。
認知症の高齢者は、昔話を語るだけで気持ちが明るくなります。……こちらが頷いて聞いているだけでも安心します。
🔹 確認、質問は要らない、相手の話に頷くだけでいいのです
「傾聴」・・・大きな不安や心細さ、心身のストレスに疲れ果てている人に、少しでも安心感を与えたり元気を取り戻してもらうために、その人の話をただ聞いてあげることです。
私たちは心の中に溜まっているものを吐き出すだけで、楽になります。
認知症の人も同じです。
漠然とした不安はいつもありますから、どんなことでも自分が覚えていることを話し、それを聞いてくれる人がいると安心します。
認知症の場合、
……どういう気持ちでいるのかということも、ほんとうのところはわからないのです。
……ただ、不安や心許なさを話すことで忘れているというのは事実です。
そのとき大事なのは、聞く側の態度になってきます。
相手の言葉をそのまま受け止めてあげること、
そういう態度が何より大切なのです。
「またその話か」「もう聞き飽きた」といった態度は拒絶になります。
「この前の話と違うよ」「そんなはずはないでしょ」も、同じです。
自分が信じている過去の記憶を、拒まれたり疑われたりすると、
認知症の高齢者は、不安や心許なさから抜け出せなくなってしまいます。
🔹 その人の「物語」を家族は受け容れるだけでいいのです。
記憶違いとか、出来事を自分の都合のいいように解釈するというのは、誰にでもあることです。
まして認知症の場合、
ほんとうに感情を揺り動かしたことしか覚えていませんから、
その人の中で新しい物語が作られてしまい、繰り返し話しているうちに確信に変わってしまうことがあります。
でも、遠い過去の出来事です。しかも自分が「こうだった」と信じている出来事です。
それを否定したり疑ったところで何も始まりません。
そのまま受け止め、頷くだけでいいはずです。
実際、ボケても幸せな高齢者の周りには、いつでも話を聞いてくれる人がいます。
そういう時間が、たとえ短くても1日の中にあるだけで、
認知症の人は安心するし自分が受け入れられていると感じます。
すると、感情も安定して穏やかになりますから、家族も楽なのです。
デイサービスを勧める理由
介護のプロや、認知症の理解者の多くは、傾聴ができます。
🔹 ボケると、人間は安全に生きようとするものです
認知症になると、小銭が貯まりやすくなります。
なぜかというと、ものの値段に不安があるのでつい、大きなお札を出すことが多いからです。
症状が進んでいくと、
誰に対しても敬語を使う人が増えてきます。
…… うっかり乱暴な言い方をして相手を怒らせたら、自分が危害を加えられるかもしれないと感じるのでしょう。
こういった現れかたを「安全の法則」と呼んでいます。(著者)
周りからは危なっかしそうに見えても、
本人は無意識のうちに安全な態度や行動を選んでいることが多いのです。
車の運転
認知症の初期の段階であれば、不安がある分、それだけ慎重な判断をしているのではないかと思われます。
「危ない」からという理由だけで行動範囲を狭めるのではなく、もっと自由に動いてもらってもいいような気がします。
🔹 外出は止めないでいい、どんどん外の世界と触れ合わせましょう。
「可愛いボケには旅をさせる」気持ちになって。
お互いに負担を感じるくらいなら
むしろ他人に任せたほうが楽な場合もあります。
認知症の介護は血の繋がった子供より、たとえば息子のお嫁さんのほうが上手だったりします。
親世代も、自分の娘の言うことは聞かなくても嫁の言うことは素直に聞いたりします。
そこで提案です。
自分の親がボケても、可能な限り外の空気を吸わせてみましょう。
本人が行きたいというのでしたら
行きつけの居酒屋、お気に入りのパフェのお店にどんどん出かけてもらいましょう。
楽しい時間を過ごすことができれば、
帰宅したときには上機嫌のおじいちゃん、おばあちゃんになっているでしょう。
ボケがまだそれほど進んでいない時期でしたら、安全を考えて家に閉じ込めるよりどんどん外に出てもらったほうがいいのです。
家族も楽になり、本人のボケも進行が遅くなれば、幸せな時間がそれだけ長く続くことになります。
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85歳以上になると、ほとんどの人に発症すると言われる認知症。
「こわい病気」ではなく、老化の一症状という認識も広まってきました。
老年精神科医である和田先生の言葉は、やさしく、丁寧です。
認知症は、介護にちょっと難しいところもありますが、
その難しさが、わかり易く書かれていると思います。
介護は何であれ、楽ではないと思います。
少しでもお役にたてたら、という思いで取り上げさせていただきました。(e)
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