emilyroom’s diary

徒然なるままにブログ

戦争中のオモロイ話

YouTube動画から

【2ch面白いスレ】

 

「戦時中の笑える話」が面白い。

 

戦後生まれの私は、「戦争」が、実感としてわからない。

教科書だけでは、「そうなんだ。」と言うしかない。

でも、この動画を見ると「戦争」中でも、人間の営みがあったことがわかる。

 

浮気者は浮気にいそしみ、抜け目ない奴は抜け目なく戦時を生き抜いた。

逃げられない現実を人々は、泣き、恨み、諦め、時には笑って生きた。

これぞ人間、歴史が始まって以来人間はこのように生きてきたのだろう。

涙をこぼしながらも、ご先祖様よ、あなた達はえらかった、と頭が下がる思いで視聴させていただいた。

 

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神戸で空襲に遭った爺さんに聞いた話 

 イノシシの丸焼き

 焼夷弾誤爆で山から焼け出されたイノシシがちょうど頃合いに焼けててうまかったそうな。

 焼き味噌

 焼け跡からすごい匂いが流れてきてよく見れば味噌屋が全焼してて焼き味噌ができてたその辺に転がってた鍋に入れて持って帰って、しばらくは飯のおかずに困らなかったそうな。

 焼夷弾焼き芋

神戸 空襲警報が鳴ると塀の上に芋を並べておき、焼け跡に行くと焼き芋ができている。

 爆弾の落ちた穴で休憩

爆撃中に逃げる時、爆弾が落ちた穴の中に入って休憩する。

一度落ちた後にもう一度落ちる確率はほとんどない、だって。

 家の間引き

 うちの実家文京区某所は、空襲に備えて延焼防止に家を間引くとかで半月後の8月16日に役所がオタクを潰します、と近所中言われたらしい。

 それで留守を守っている祖母はうちは実家が両方とも都内で、疎開するところも家財預けるところも荷車もないから、「ええ~い、潰すくらいならみんな売っちゃいましょう」(江戸っ子)と床の間の柱も庭木も箪笥も畳も梁もふすまも瓦も、売れるものはみんな売りさばいたそう。

 そうしたら15日に終戦で、家は無事。軍の技術者で九州で働いていた祖父が帰ってきて大喧嘩。ちなみに戦争末期にもかかわらず、家財一式は婆様が結構高値で売りさばいたので、戦後は家は空っぽで壁しかない状態だけどお金にはあまり困らなっかったらしい。屋根はトタンで急場をしのいだそう。

 

 ※ 「サザエさんの打ち明け話」・・・隣のおじさんが床の間自分でぼこぼこにしたら翌日終戦になった。

   (168 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage])

 

 父は疎開してきたおなかをすかせた子どもたちに」よく弁当を盗まれた。

 

 うちの婆さんは、土地解放政策で小作から解放されたとGHQに感謝している。90を過ぎた今でもその田んぼと畑を耕し続けているよ。

 

 逆に地主だった祖父は、農地解放でほとんど持っていかれた。酔っぱらうと空襲で蔵焼いただけでは飽き足らず戦争が終わったらみんな持っていかれた。許すまじマッカーサーと息巻いていた。

 

 オオサンショウウオ白身魚のようで美味しかった。

    (おさかなくわえた名無しさん)

 

 うちのゃんは、ダイナマイトは甘くてうまいと言っていた。

 蜘蛛とか■を持ったタツムリは絶品だった。

 そんなものを食べるほど食料が不足していたってことだな。

    (65537KeAAA)

   

 ☘ なるほど、カタツムリはうまいのか! フランス人が食べるわけだな。

 ニトログリセリンは甘いはずだって舐めた人がいた。

 ☘ 甘かったと聞いた。

   戦前のガラスも甘かったらしい。アメみたいだったのだろうか?

 

 陸軍部隊の料理人として■したら、戦時中だというのにつまみ食いばかりしていて戦争が終わって帰ってきたら前よりも太っていてびっくりしたとおばあちゃんが言っていた。        

 

 昭和20年9月 授業中GHQの人と通訳が入ってきたそうな。で、何やら教科書を指しながら英語でまくし立てる。その後、通訳の人が戦争は終わったのだから、こんな教科書(墨塗り)を使う必要はない。今日は授業は終わり、皆帰ってよしと言ったので■GHQ様様だぜえと、クラス全員で速攻映画を見に行ったそうだ。

時代が変わっても子どもは同じようなもの。

 

 父方は曽祖父が歳行き過ぎ、祖父は体弱く行ってない。

母方の曽祖父も歳行き過ぎ、祖父は船に乗る予定だったけど終戦来て帰って来た。

祖父曰く、原爆落とされた後の広島の風景は忘れられないそうだ。

祖母の兄はシベリアで命を落として御骨は向こうにあるらしくて日本に戻しますかって書類来たけど、祖母が面倒くさいからそのままでいいと未だに帰ってこれない。

孫は流石に故郷に帰してやれよと思いました。   (星のレインズ)

 

 米兵よりも日本人のほうが嫌いだった終戦時12歳の親父の話

 東京から茨城の片田舎に疎開してきたが、疎開先の本家には相当意地悪されたらしくまともに飯も食えなかったそうだ。

 近くに米兵の駐屯地のようなものがあったらしく、米兵に一発芸のようなものを披露したりで食い物をよくもらっていたそうだ。

 

 よく「日本人はダメだ。結局2回(戦争とプラザ合意)もアメリカにつぶされてる。どうにもならん」って哀しそうにぼやいてた。   

    (kisaragi san)

 

 雑誌のインタヴューで見たのですが戦闘が膠着しているところに慰問の軍楽隊がやってきて演奏をすることになったとき、指揮官がせっかくだし相手にも聞いてもらおうぜって言って無線送ったら「是非聞かせてもらおう」って返事がきて塹壕だか谷だかを挟んで演奏会したら敵軍からすごい拍手がきたって話がありましたね。

    (t-34

 

  ☘ 日本軍の話でしょうか? 洋画で、似たような話が作られていますね。

 

 持ち主の機転で没収を免れた国宝級の刀剣はたくさんあったそうな。「まじあせった~」みたいなこと言ってたで。

 

 ww2 アメリカの兵隊さん、軍艦のなかでミッキーマウスのアニメ観てた。

……有名な話。 日本が勝てるワケないよね。

        (ゴン太boo 2nd)

 

 群馬県館林市では結構有名な上皇后美智子様(旧姓:正田)のエピソード

 (美智子様は)一時期正田本家のある館林に疎開してた事があり、当時の館林南国民学校に通っていましたが、そこでは地元の子供達に馴染もうと館林の訛り(べえべえ言葉)を真似ていました。

そんな中、休み時間に学友を校庭

に誘おうとして、地元民なら「行くべえ(行くnべえ)」と言う所を「行きましょうべえ」と言ってしまい周囲を笑わせたそうです。

ちなみに美智子様は正義感も強く腹痛で倒れた学友がシラミだらけで誰も手出ししなかったところ、美智子様は率先しておぶり保健室に運んだなんてエピソードもあります。

育ちの良さがにじみ出るロリ美智子様のお話でした。

     (pochizawa)

 

 ☘ こんな話を、実体験として話せる人たちは少なくなっていきます。

   もうすぐ「100歳だけど戦後生まれ」って時代になります。

 

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