emilyroom’s diary

徒然なるままにブログ

子規 病苦を綴る!

正岡子規は、

 ……胃痙攣を含む病苦の様を   

 

「雷鳴り雷閃き(らいひらめき)雨そそぎ霰(あられ)走り日頽(くず)れ月砕け天柱傾き地皮裂け大海立ち熱泉湧き虎、風を吹き竜、火を吐く」

               『松■玉液』

 

こんな激しい言葉で綴っている。

 

    「子規365日」 夏井いつき 著(朝日文庫

 

雷鳴り

電閃き(いなずまひらめき)雨そそぎ

霰(あられ)走り

日頽(くず)れ月砕け

天柱傾き

地皮(ちひ)裂け大海立ち熱泉湧き虎、風を吹き竜、火を吐く

 

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弟子たちは、  

◆ 11月24日  たんぽ

 

碧梧桐のわれをいたはる湯婆(たんぽ)哉

 

胃痛やんで足のばしたる湯婆(たんぽ)かな

 

  碧梧桐: 河東碧梧桐、子規の髙弟 俳人・随筆家

 

 湯たんぽを差し入れたりして思いやっている。 

 

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「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の

正岡子規とは?   

 

   本名 正岡常規(まさおかつねのり) 幼名 升(のぼる)

   慶応3年10月14日(旧暦9月17日)誕生

 

 身長は?  163㎝(約5尺4寸) 体重 52.5㎏ (14貫)

     ※ 漱石 159㎝  (楽天ブログ 土井中照)(ウイキペディア)

 

  何をした人? 俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。

 

  職業は?  俳人歌人、新聞記者

  

  主な著書は? 「獺祭書店俳話」「歌よみに与ふる書」「病状六尺」他

 

  いつ亡くなった?  明治35年9月19日 脊椎カリエスにより 享年34歳

 

  なぜいつも横を向いている?(写真) 持病の脊椎カリエスが悪化、前屈みの姿勢になっていた。正面からの撮影で、背筋を伸ばすのが難しかったのだろう。その頃は椅子にきちんと座ることさえできなかった。

(国文学者 復本一郎氏 神奈川大学名誉教授)

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  21歳の時 突然喀血 肺結核と診断

 

  日々どのように暮らしていた?

   「病気の境涯に処しては、病気を楽しむということにならなければ生きて居ても何の面白みもない」と言い放てるのが、子規の精神の強さであり明るさである。

 モルヒネを飲んで写生することが楽しみの一つ……。

 

  妹の律については?  「律は理窟づめの女なり 同感同情のなき木石のごとき女なり」 穴の開いた患部の包帯交換、食べることだけが楽しみだという大喰らいの病人の食事の支度、日に何回とある便通の世話、わめき煩悶し癇癪を起す兄のヒステリックな罵詈雑言を、律は「おしろい」の花を眺めるふりをして聞き流すこともあったに違いない。

  「おしろいは妹のものよ俗な花」{白粉花

 

  母に甘える?  「此の頃の天気とて毎日毎日雨ふり止まぬにラムネと氷とかの為に1日何度母様を労せしことかわけもわからず候」

   「臥辱終夜頭痛激烈 仕候」という瘧(おこり)の熱と闘いつつ……。

 

  野球を愛した明治の俳人  子規の没後100年に野球殿堂入りを果たす。

    自らプレーし、広め、野球を題材とした俳句を多数詠み残した。「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」など野球用語は子規の日本語訳。

日本における「野球の祖」

 

 ★ 俳句雑誌『ホトトギス 俳句の近代化

    俳句雑誌。1897年(明治30)正岡子規主宰・柳原極堂編集の下に松山市で発行。翌年、東京に移し高浜虚子が編集。俳句の興隆を図り、写生文・小説などの発達にも貢献。現在も続刊。

 子規の死後、『ホトトギス』を引き継いだ高浜虚子は、神経衰弱に罹っていた漱石に「小説でも書いてみないか」と声をかけ、生まれたのが吾輩は猫である

吾輩は猫である』人気を博し、第11回まで連載される。

 

 ★ 歌よみに与ふる書 短歌の改革 伝統的な和歌から近代短歌の転機になった。

    歌論書。1898年(明治31)「日本」に発表。俳句の近代化に取り組んでいた子規が、和歌革新を発した第一声。古今和歌集・桂園派を排し、万葉集。金塊和歌集を賞揚。

         (広辞苑

 

  その後の律は?

       

  母ト二人イモウトヲ待ツ夜寒カナ    1901(明治34)年

 

   明治33年、子規が漱石へ宛てた、最近すぐ涙が出るという手紙には「妹ガ癇癪持ノ冷淡ナヤツデアルカラ僕ノ死後人二イヤガラレルダラウト思フト涙」と綴っているが、

子規の死後、

律は自立した女として堂々たる生きざまをみせる。

家督を継ぎ、職業学校に学び、やがて母校の教師となった。

母の看病のため退職した後も裁縫教室を開き生計を立てた。

 

 ㈶子規庵保存会の初代理事長を務める

 

 

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 おいしい物を食べている時だけは、「痛さ」を忘れられるということを聞いたことがある。

 これだけの痛みを忘れられるのなら、いくらでも食べさせてやりたいと思う。

 

 それにつけても、弟子たちの思いやりの深さよ。

 子規は、いい先生だったのだとつくづく思う。……。

 

漱石が来て虚子が来て大三十日(おおみそか

 

 子規周辺の人々が子規を語る時、彼に近ければ近い人ほど辛辣な言葉を使う。

 漱石は「こちらが無闇に自分を立てようとしたらとても円滑な交際の出来る男ではなかった」と評し、弟子の虚子は目の上のコブ的存在とて煙たがった。……

   が、そんな雑言も含めての子規の魅力は、この句の根底に溢れる情ではないか。

 

 と、解説にある。

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 私が知っている、死ぬほどの痛みといえば、ギックリ腰がある。

 一度だけ、私も罹ったことがある。

 本当にびっくりした。

 その痛さたるや、脳天を説き抜け、全身を震わせるような神経の痛みだった。

 一瞬で、いや、2~3分位でおさまってホッとした。

 ギックリ腰でつらい思いをしている方には、同情申し上げる。

 

 また、癌で骨に転移した母が、「殺せ!」と叫んでいた。

 モルヒネを打ってもらうしかなかった。

 

 俳人は、自らの「痛み」をこういうふうに表現した。

 その一端をのぞかせてもらった。

 

 

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子規365日 (朝日文庫)