川路 利良(かわじ としよし)
「日本警察の父」と呼ばれる。
「大警視」といえば、川路のことと言われる。
そんな彼には
「川路のキン○○」という逸話がある。
戊辰戦争に
薩摩軍の大隊長として参戦した。
敵の銃弾を股間に受けたが、その時
傷ついたのは袋部分だけで睾丸は無事だっ
た。
もし戦場を恐れてキン○○袋が縮み上がっていたら睾丸ごとやられていたところを平常心で
ブランと垂れたままだったから竿と玉の間を弾丸が貫いていったというわけで、
川路の豪胆さを讃えるエピソードとして伝えられている。
学ぶため欧州に留学。
帰国後は、日本の警察制度を創設・整備に尽力する。
フランスの警察制度を参考にする。
「聲無キニ聞キ 形無キニ見ル」
(隠れているものを明らかにし、いつわりの中から、真実を発見するのが捜査の本質である)
という、川路の精神は現代の警察官にも受け継がれ、
「日本警察の父」と呼ばれる。
しかしその一方で、故郷の鹿児島では
「西郷の恩を仇で返した裏切り者」と言われ、今なお川路を嫌う県民が少なからずいるといわれている。
明治六年政変で、
西郷の下野に際して
「私情においてはまことに忍びないが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。
大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身する」と宣する。
大久保利通の庇護の下、警察事業に専心した。
西南戦争のきっかけを作ったか?
薩摩出身の警察官ニ十四名を鹿児島に潜入させて、そこかしこで反乱を起こしていた不平分子の離間工作をおこなう。
このとき捕らえられた警察官の一人が、厳しい拷問のすえ「川路が西郷の刺殺を命じた」と自白した。
このことが薩摩側による明治政府への不信感を高め、西南戦争のきっかけとなった。
この時の調書では「西郷の刺殺」とされたが、実際に口にしたのは「西郷の視察」であったと後に当人が語っている。
西南戦争勃発後、陸軍少将を兼任
警察隊で組織された別働第三旅団長として、
九州を転戦する。
田原坂の戦いでは、警視隊から選抜された
抜刀隊が活躍し、西郷軍を退ける。
明治十ニ年(1879年)10月13日 死去
【 トリビア 】
近代警察の創設期とはいえ、40歳での大警視(現:警視総監)就任は史上最年少記録
蒲鉾が大好物(あまりによく買うので料理屋だと思われていた。)
俳優フランキー堺は、大警視の嗣子となる利恭の弟の孫
激動の時代 大抜擢されるも、その努力も並の努力ではない。
時代の流れとはいえ、心ならずも敵味方になってしまう理不尽さ。
怒涛の時代の一部を見せてもらった。
また、キン○○の話を書くことになった。
やっぱり、父母が亡くなってからで良かったと思う。母親より長生きしていて、娘もないもんだが、両親は、良い気持ちはしないだろうと、親不孝者は気にする。
そろそろ、私の顔にもヒゲが生えてきたかも。
参考文献 「大警視 川路利良
日本の警察を創った男」
神川 武利 著
「幕末志士100人の説明書
佐幕か倒幕か!」
(株)メディアソフト
他