蛍の光は聞いたことがあるけど、線香の光は、初めて聞いた。実験してみた。
江戸時代の地理学者
長久保 赤水(ながくぼせきすい)
長久保赤水は、名を玄珠、字を子玉、呼名を源五兵衛(げんごべえ)という。
常陸国(ひたちのくに)の赤浜に生まれたので、号を赤水といった。
小さい時から学問好きで、少し大きくなってからは、おかあさんを助けて仕事に精を出しながら、その暇々に一心に勉強していた。
その頃は暮し向きもよくなかったので、夜など行燈(あんどん)もともさずに、線香の光で、読書に耽った。
昔の学者達は、そのようにまでして勉強したのだ、と銑三先生は言われる。
怠け者の私は、ふと、線香の光とは何ぞやと、疑問を持った。
蛍の光ならよく聞くが、線香の光とは初めてだ。
試してみよう。
部屋の明かりを消して、線香をニ本立てて火をつける。暗闇の中に小さいニつの点。しばらく、暗闇に目を慣らす。そして、線香の側に手をかざす。うすぼんやりと手が見える。手と分かる。
ああ、これなら字が読めるわ。
線香を十本立てたら、当たり前だが、もっと明るくなって、字も読みやすくなる。
線香の光に手をかざした時、ぼんやりとした明かりだが、温かいものを感じた。やさしい光に感動した。
心に満ちてくるものがあった。
継母は賢い人で、自分の産んだ子供ではない赤水をよく育てて、稼業にも精を出されたので、そのことがやがてお上にも聞こえて、ご褒美をいただいた。
赤水三十五歳の時亡くなる。
「おかあさんがなかったら、わたしはかように学者として立つことは出来なかったのだ」と言っている。
赤水は最初は漢学をしたが、その内に地理学に進む。
旅行に行く時は、磁石を持って行った。
漂流した船頭の引受けのため、長崎へ行く。
道々くわしい日記をつける。
出島に行き、オランダ屋敷などを見物する。
オランダ人と交流して、西洋の酒やら菓子やらの馳走になる。
この時の旅行を
『長崎行役(こうえき)日記』として残す
『新刻日本輿地略程(りゃくてい)全図』
二十余年の苦心の余りに出来た
これまでの地図とは比較にならないほど精
密で、緯度、経度も表す。
経度、緯度を表したのは、日本で最初
伊能忠敬の地図との違い
忠敬は、出来上がったのを幕府へ納めただ
けで、出版して世に広めたりしなかった。
世間一般には赤水の地図が使われた。
安永六年十一月 侍講に取立てられる。
六十一歳
水戸家から『大日本史』の地理志の編纂
享和元年七月二十五日 八十五歳で死去
「…貧しい農家から出て、独学で地理学の大家となった赤水は、また一代の偉人でしたが、平民出の赤水は、少しも高ぶらない穏やかな人でありました。」
古川古松軒(こしょうけん)も
「篤実温和の学者」と褒めている。
長久保赤水顕彰会がある
海外で高く評価されている
出生はどうあれ、学者の皆さんは、だいたい穏やかで長生きされてますね。