「おらんだ正月」を古本屋で偶然手に取り、パラパラと目を通していると、面白くて面白くて家に帰ってから椅子に座り直して読み続けた。
残念ながら、まだ家事など、しなければならないことが残っている。まさに、後ろ髪をひかれる想いで本を閉じた。
そうこうしているうちに時は経っていった。
久しぶりにこの本を手にしてときは、懐かしかった。(うちの本棚からですが…)
手にした時から気になった「おらんだ正月」という題名について、やっとそのいわれを知ることが出来た。
本当にいいお話で、一人でも多くの人に知っていただきたいと思い、ここに書くことにした。
まず、江戸時代にこんなに多くの学者がいたことに驚く。
様々な分野の五十余名が取り上げられている。
そして、これらの人に対する著者の温かい眼差しに心打たれる。
このことが、書いてみようと思った一番の動機になっているのかも知れない。
「おらんだ正月」とは、江戸時代の西洋学者たちが集まって、太陽暦で正月を祝うことを続けていた。
新しい元日を祝うというので、その会には「新元会」という名が附けられたが、「新元会」では堅苦しいので「おらんだ正月」と呼びかわすようになった。
その会は、四十何年も続けられた。
当時の西洋学はオランダ学、すなわち蘭学に限られていたので、「おらんだ正月」の「おらんだ」は、漠然と西洋全体を意味していた。
「おらんだ正月」は、寛政六年の閏(うるう)十一月十一日がちょうど太陽暦の一月一日に当たるというので大槻磐水(おおつきばんすい)先生が本郷の自宅に同志の蘭学者たち三十名ほどを招いてお祝いをしたのが最初だった。
その日の様子は、或画家が画(えが)いたものに残っている。
〈大きな幅(ふく)に仕立てられ、今は早稲田大学図書館の所蔵になっている〉
当時の蘭学者は、大方は医者で、坊主頭の医者の格好をしたが多い。
一同は低い四角な卓を囲み、ギヤマンのコップで、酒を酌み交わしたりしている。
一人だけ、珍しくも洋装で、ナポレオンのような帽子を冠って、少し離れて椅子に掛けている。
会の様子がこの絵によってよくわかる。
会に集まった人々を、ハイカラだったのだろう、新しがり屋だったのだと考えるのは、皮相的見方で、当時の蘭学者たちは、浮薄な人々ではなかった。真剣な気持ちで蘭学に向かっていた人々だった。
当時の蘭学者たちは、
西洋の医学が、旧来に漢方の医学よりも遥かに進んでいることを知って、その西洋医学をわが国に取入れることに、ひたむきな努力を続けていた。
なお広く医学以外にも、西洋の文化の東洋よりも進んでいるものの多いことを知って、その文化を取入れようともしていた。
しかしながら、当時のわが国は
鎖国を続けていた。
西洋の学問をすることを異端視し、邪道視し、迫害しようとしていた。
そうした社会情勢の中で、
西洋の学問をしようというのは、よほど志操の堅実な、困難に耐え忍ぶことの出来る人でなければならなかった。
大槻磐水は
江戸の蘭学界の中心人物
蘭化、玄白から蘭学を承けて、次の時代を造った。
オランダの学問を組織立てて、新しく蘭学に向かう人々の勉強し易いようにした。
蘭学界の大功労者
「前野蘭化先生は、『解体新書』の出版に当たって、ただ学問のためなのだ。それによって名前を売ろうの、利益を得ようのなどというのではない。そのことは神様にお誓いしてある。だから版にする書物に、自分の名前を出したりしてはならぬと、堅くいい渡された。
それで『解体新書』には、前野蘭化という名は出ていない」
「わが国の蘭学は、実にかように心事の高潔な、学問以外には何者もなかった蘭化先生によって開かれた。
先生のこうした純粋の精神は、後々の人々に受けつがれていく」
「さような態度で蘭学の研究に当たった蘭学界の先生たちに、それだけ大きな敬意が払われることにもなるのであります。」
大槻家は東京都文京区金助町にある
江戸時代には珍しい三階建ての家
〈青木昆陽〉→
大槻磐水
→ 明治維新
「…西洋文明の移植という大事業がやすやすと進められたのは、それまでの蘭学界の人々によって、移植出来るだけの素地が作られていた…」
「…江戸時代の蘭学界の先生方の大きな功績に対しては、幾らたたえても、たたえ切れぬものがある…」
明治九年は磐水先生の没後五十年
大槻家で追悼の祭典が営まれる
陸軍の軍楽隊が特別に出席し演奏する
陸軍軍楽隊が初めて民間の催しに出た
列席者に勝海舟、福沢諭吉、岸田吟香(画家岸田劉生の父)がいた。
この時、「音楽の趣味なき国民」と漫画雑誌『東京パック』に書かれている。
今日、私たちは
「…西洋の音楽を、西洋の人々同様に理解し、鑑賞するようになって、すぐれた演奏家も、すぐれた作曲家も、続々としてわが国から生まれつつあります。」
「…相当に長い準備期、揺籃期を経て、ここまで至りました…」
〈「おらんだ正月」の新元会は、
限られた人々のささやかな集りというのに過ぎなかったのですが、
見ようによっては、
明治の新文明は、実にこのささやかな集りから発したといってもよろしかろうと思うのであります。〉
森 銑三先生、この本を書いてくださってありがとうございます。感謝。
「おらんだ正月」 森銑三著 小出昌弘編
より