emilyroom’s diary

徒然なるままにブログ

北海道の名づけ親は?   HOKKAIDO

北海道の名づけ親は、

 

「決断のとき 歴史にみる男の岐路」

   (杉本苑子著(文藝春秋)

 

によると、

松浦武四郎大探検家・地理学者である。二百数十種にのぼる地誌関係の著述がある。

という人物である。

松浦武四郎はその時、蝦夷地の開拓御用掛であったが、なかなか仕事をさせてもらえず、「俸給返納願い」「辞職願い」を出していた。

 

     ※ 榎本武揚らによる箱館攻撃

 

「おぬしを現地に行かせないのは、いろいろと意見を具申してもらいたいからだ。蝦夷地の名称も、これまでのままではなるまい。新しい呼び名を選んでくれぬか?」 

と依頼された。

 

蝦夷地にかかわることで自分が役に立つと思うと、武四郎は俄然、元気づく。

 

日高見道(ひたかみどう)・北加伊道(ほくかいどう)・海北道(かいほくどう)など、すぐさま幾つか候補をあげて、いちいちその拠ってきたる由緒を説いたが、採用されたのは北加伊道であった。

 

「原住民らは、彼らの国を称して加伊と申します。

また、おたがい同士を呼ぶのに、カイノーと言います。

近ごろではこれが訛って、アイノー(アイヌ)とも発音されています」

 

つまり北の国、北の加伊ー。ただし加伊の二字に海の字を当て、「北海道」とするという案がまとまり、

さらにその北海道の中を石狩・北見・胆振(いぶり)・十勝・根室・後志(しりべし)など十一国八十七郡に分割統治する案も、

武四郎の意見書に沿って採択された。

 

なお加えれば、「樺太」の名も、武四郎の選字に従っている。

 

カラフトの現地語には唐太・加良不止・■喇呼土・柯太など雑多な文字が当てられていたが、

「かの地には樺(かば)の大樹が非常に多い。樺太と書くのが至当でしょう」

との武四郎の主張が通ったのだ。

 

「北海道」の名付け親であるばかりでなく、文字の上で武四郎は、「樺太」の命名者たる栄誉までをも担ったわけである。

 

 

この時代の有名な北辺の探検家

伊能忠敬

間宮林蔵

最上徳内

近藤重蔵

 

前記の四人より、武四郎は少々後から世に現れてきている。

先駆者(パイオニア)の栄光とは無縁だった。

 

武四郎は文政元年の寅年、二月六日に誕生した。

「寅年生まれは気性がはげしい」などという。

山野を跋渉(ばっしょう)する苦しみ、孤独の苦しみ……。よくそれらに耐えた武四郎の、《鉄人》と称してもよい心身の強健さは、まさに寅年の名に恥じない。

 

生まれたのは、伊勢の須川村・・・。紀州藩飛地で、東に雲津川の波映がのぞめるゆったりとした田園地帯だった。

 

九才の時、天然痘にかかる。

子供ごころにも世をはかなみ

「出家したい」と言い出した。

 

「麻疹(はしか)は命定め、疱瘡(ほうそう)はきりょう定め」

 

そのころはどちらを向いても「みっちゃ面」のオンパレードだから、特に気に病む必要はないが、重症・軽症の差はむろんあった。

 

茹卵をむいたようにきれいだった肌が、罹患を境にでこぼこになったら、いくら無頓着な年ごろといっても、現代ッ子のニキビ以上に深刻なショックだったにちがいない。

 

後年、漂泊の旅に一生をゆだね、四十二歳まで結婚しなかった生き方にも、このことが意識下で影を落としてはいないだろうか。

 

江戸への小旅行  見よう見まねで篆刻の仕方を会得

 

十七歳から十年、故郷を留守にし続けた。

 

その間、旅日誌や見聞記のたぐいを書き続けて倦むことがないメモ魔ーー。

 

日本国中、歩け歩け

 

大塩平八郎の屋敷に草鞋を脱ぐ。

 武四郎の骨柄を見ぬき

「しばらく当家に足をとどめ、修学につとめる気はないか?」とすすめられる。

 

この三年後

天保八年(一八三七年)、棄民の救済を進言して取りあげられなかった大塩は、門弟をひきいて決起し、大阪城代を攻撃……。

敗れて自殺してしまう。

大塩平八郎の乱

 

もし武四郎が塾生になっていたら、あるいは巻き添えの厄に遭ったかもしれないのである。

 

天保八年、武四郎二十歳 旅焼けし、たくましい一個の青年に成長していたにちがいない。

 

天明の大凶作

天保の飢饉

武四郎も満足に米の飯など食べられず、かろうじて手に入る粟やキビで飢えをしのいだ。

 

二十一歳の時長崎に到着。

ここで、生きるか死ぬかの重病に取りつかれる。

高熱と下痢……。疫痢らしい。

 

仏道修行し、名を文桂と改める。

 

津川文作、号を蝶園と称した風変わりな老人:植物学者、薬草の研究家

 

「朝鮮渡航よりも、焦眉の急を要するのは北辺の探査ですぞ、文桂さん。赤蝦夷(ロシア人)どもが、しきりに北地を窺い、領有の野心を燃やしておるそうです。早々に手を打たねば、我が国は蝦夷地を失うことになりますぞ」

 

この言葉が、武四郎の後半生を決定する大きな転機となった。

 

(そうか。北方蝦夷地の調査か。やりがいのある仕事だな)

心中ふかく、うなずいた瞬間、武四郎は単なる風来坊の旅行者(トラべラー)から、生きることの意義と目標を旅を通してさぐろうとする一個の、真摯な若者に脱皮したのである。

 

寛政(1789~1801)から文化(1804~18)の初年にかけて来航したレザノフらロシアの使節たちが、ネモロ(根室)とあわせて長崎をも、開放するよう幕府に求めてきていた。

 

武四郎、還俗する。

 

懐中にしのばせた人名簿

 

江戸の大火事

「…… 伝馬町の牢屋につながれてた囚人どもにも切りほどきの達しがあった。

鎮火のあと大方は牢へもどったのに、高野長英とかいう蘭学者だけが逃亡して、いまなお行方が知れぬのじゃ。この辺にも立ち廻るかもしれぬというので、旅人の詮議がきびしい。渡海はさせられぬよ」

 

「縁の下の力持ち」で満足

 

幕吏となって乗り込む

…… いまこそ武四郎は公儀役人として、大手を振って蝦夷地入りができる。

 

病んだのは(向山)源太郎が宗谷で歿した直後、第四次探検のさなかで、 

「もはや助からぬ。おれも遠からず向山どののあとを追うことになるだろう」

枕の下にさし込んでおいた辞世の一首

 

 我死なば 焼くな埋めな新小田に

     捨ててぞ 秋の稔りをば見よ

 

(自分が死んだら屍は新しく開墾した田の肥やしに使ってくれ)

 

結婚と辞職

安政六年(1859年)十一月

江戸城内の二ノ丸役所に出頭して御役御免を願い出た。

武四郎、四十二歳 二ヵ月前に福田とうと結婚した。

「どうしてもあのかたのところにとつぎたい」とひと目惚れされる。

 

六度蝦夷地巡回に出かけている間に、

安政の大獄起こる。

 

若き日、引き止められながらも振り切って洗心洞をあとにしたおかげで、巻き込まれずに済んだ。

 

町暮らしを気ままに愉しみはじめたのである。

動乱期の嵐をやりすごすのに、これはたいへん賢明な選択だったともいえる。

 

武四郎、著述に専念する。

 

北海道の名づけ親

「北海道」と「樺太」の名づけ親となる。

 

大台ヶ原コロニーの構想

「終焉の地と定めたい。骨は山頂に埋めてくれ」と遺言する。

志ある青年たちを集めて、コロニーの建設を夢見たのではあるまいか。

思い半ばで武四郎は倒れた。

 

明治二十一年二月十日、享年七十一。

戒名「教光院釈遍照北海居士」

 

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学者の情熱というものもが、どういうものかよくわかりました。(ような気がします)

一途に求めると、道は開けるを地でいった人。

「北海道」と「樺太」の名づけ親がいたことに驚きました。

それも、松浦武四郎という一番相応しい人でした。

 

あと、なかなか癖のある人物が取りあげられています。

よろしかったら、手に取って読んでもらえると嬉しいです。

 

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今あるもので「あか抜けた」部屋になる。