Medicin is a benevolent art (医は仁術)
乞食の病気まで診てやった御医師望月三英
(もちづき さんえい)
江戸の将軍の侍医であった三英は、良い身分の家に生まれた。しかも三英は、身分が高いからといって高ぶらず、下々に対しては、ことに憐れみの心が深かった。
ある時駕籠で、江戸橋を通ると、橋の上に乞食の子供が熱にうなされて寝ている。
三英は駕籠を止めさせ、丁寧に子供を診察してやり、どっさり煎じた薬を供の者に家まで持たせた。
このようなことがあって「望月先生は乞食の病気でも診てくださるそうな」と家の前は、毎日人の群れが出来た。
ある時江戸の名優の市川団十郎が大病をした。
町の医者では到底治らぬもので、三英先生の治療を願いにきた。
市川団十郎といえば、役者として江戸でも第一番に挙げられる家柄だ。
しかし、江戸時代には、役者は河原乞食と蔑まされて、本当の人づきあいも出来ないで、非人たちと一つに見られていた。
三英は、そんなことを気にすることなく、快く引き受ける。
お城からの帰りがけに、毎日駕籠を、市川の家へ廻らせて、その病気を診てやった。
病気は完治する。
「団十郎の病気を望月先生が治された」という評判が、世間にぱっと拡まった。
三英と同じ侍医に橘 隆庵という人がいた。
「聞けばそこ許は、この間河原乞食の病気を診られたとの噂だが、恐れ多くも、将軍家のお脈も伺い申す身が、非人同様の者の治療をなされるなどとは以ての外のことではないか。もしそれが実際なら、少し慎みなされたがよろしかろう」
三英は、顔色一つ動かさず
「なるほど、それも道理かはぞんじませぬが、医はもと仁術だといいます。身分の高下(こうげ)に拘らず、脈を見、薬を与えるのが、われわれ医者たちの勤めではありますまいか。身の栄華に誇って、卑賎の者を振り棄てるといういわれはありますまい。私はこの後とても、さようの区別を立てずに、出来るだけ手広く治療を施したいと思います」
(三英先生、カッコいい!)
隆庵は、何も言うことが出来なかった。
時の将軍八代吉宗は、このことをきいて、
「いかにも三英の申すとおり、医者は療治をするのが本分だ。どのようなところであろうとも、頼みに来たならば、かまわずに出向いて診てやるがよい」と仰せられる。
三英は、お咎めを受けないどころか、かえって面目を施した。
三英の名はますます挙がり、忙しくなっていく。が、その忙しい中でも学問を怠らなかった。
吉宗は、学問に熱心な三英に感心して、幕府の御書物庫(おしょもつぐら)の医書を自由に見ることを許された上に、支那から長崎へ渡って来る書物で欲しい物はいい値で買ってよいと仰せくだされる。
三英は、それに依って立派な著述を行う。
ある著述の中に
「食物の量のことをよく医者に聞く人があるが、もともと極(き)まった分量というものはない。好物でも一口残すといって、今一口と思うところで止めて、十ニ分には食べないのが衛生の秘訣なのだ。…めいめい自分で用心するのが第一だ」と述べている。
食事は自分の腹に聞いて、腹八分にしときなさいと言われている。
明和六年十一月四日に七十三歳で亡くなる。
墓と碑は、浅草の寿松院という寺にある。
八代将軍吉宗がまた、いい仕事をしている。
同時期に、大岡越前守がいる。
良い才能が開花するには、良い後ろ盾が必要と言われる。
この時代は時代劇で有名な、暴れん坊将軍吉宗、大岡越前守と役者が揃っている。
世界に引けを取らない学者を輩出していることと関係があるのではないかと思える。
三英先生が、勇気も知恵もある人であっても、妬み、嫉みの中で生きるのは大変だろう。
将軍吉宗という人があってこそ、生かされたと思わずにはいられない。
吉宗、偉い!
「ご飯は腹八分だよ」と今では常識になっていることも、昔から知っている人は知っていたのだ。多分、教えられても守れない人も同じくいたことだろう。
そうでなければ、今もダイエット、ダイエットと騒ぐはずがない。
はい、私もその一人です。
そして、医は仁術であってほしいと切に願う者です。