江戸時代の庶民の暮らしが生き生きと描かれていて、面白くて、また、いたる所で泣き、笑いながら読んだ。
特に、庶民の暮らし、薬の材料や、その使い方が、懐かし思いのするものや、「ひえっ」と恐れおののくものがあったりと興味深かった。
また、「大丸」という名前が出てきて驚いた。
口入屋から雇った下働きの女たちが、「わがまま」なのに驚いた。今どきの若者よりひどいのではないか、と思った。
と、本の主人公はそっちのけで、江戸の暮らし事情が面白くてここに書かせたもらった。
⒈ 馬琴は毎日忙しい
⒉ 「大丸」に買い物に行く 「先義後利の義商」
⒊ 薬の材料、製造
⒋ 下働きの言い分
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⒈ 瀧澤馬琴は、毎日忙しかった。(嫁からみた馬琴)
馬琴はとても隠居をしているように見えない忙しさだった。
複数の版元が稿本はまだかと催促に着て、それを渡したかと思うと校合(きょうごう)をし、筆工の腕が悪い、画工が下手と指図をし、版元の手代が仕事を怠けているとわかって、言語道断なりと激怒する。
飼っているカナリアの世話、花、草木、豆類、葉物の世話を欠かさない。
それだけではなく日々の人の出入り、金銭の出入りを細かく日記に書き残している。
みちには馬琴は、日本で誰よりも忙しい人のように見えた。
生活のそこここに細かい目配りをしている馬琴は、くぐり戸の修復、勝手口の下流しの板の張り替え、庭木の剪定、雪隠壺の入れ替え、掃除に至るまで、大工や下掃除の者に指示する。すべて自分の気に入ったようにやらせないと、気が済まないのである。
・還暦祝いの前に総入れ歯になる。
◇瀧澤家跡取りの両親への思い
夫、宗伯は口数の少ない男だった。
結婚当初、彼は自分の両親についてみちに話した。
父は若い頃の放蕩生活の流れで、耕書堂蔦屋(つたや)の手代になり、一時期は山東京伝の代筆で黄表紙を書いたりもしていた。年頃になり蔦屋重三郎(つたやじゅうさぶろう)から、新吉原で茶屋を営む金持ちの叔父の娘と結婚したらどうかと勧められたが、父は常々、自分は武士の出であるのに、今は町人に成り下がったと忸怩たる思いでいた。ここでそんな娘と結婚するのは彼の自尊心が許さず、蔦屋を出た。
たまたま幼友達が養子になっていた山田家に住むことになり、彼の世話で三歳年上の履物商を営む伊勢谷の娘、自分の母となる百との縁を得て夫婦となった。
それを機に父は瀧澤家の立派な家長として一生を全うするのだと、固く心に決められたのだと、淡々と告げた。
「わたしはいうまでもなく、お父様、お母様を尊敬している。お父様は博学博識のあのようなようなご立派な方であるし、お母様は家事万端すべてをこなされ、そのうえご先祖を敬い、毎月菩提寺へのお詣りも欠かさない。
わたしたちもお二人のような夫婦になればよいと考えている」
◇馬琴の親心
宗伯は幼少のころから身体が弱く、口数も少なく、他の子どもとはほとんど遊ばない子供だった。画も書も習わせたが上達せず、将来を案じた馬琴が
「医師にでもしたら、人から尊敬されるだろう」
と画策した。とにかく息子を人から尊敬される人物にしたかったのである。
宗伯は父の意向におとなしく従って医術を学び、師から許されて宗伯の名前をいただいた。
馬琴は息子のために、今住んでいる神田明神下の家を二十二両で買い求め、年二十両の生活費を渡して宗伯を住まわせていた。
そのような状態なのに、馬琴は彼が一家を構えたと胸を撫で下ろした。
松前藩志摩守章広(しまのかみあきひろ)の医師として抱えられ、侍医を望んでいた馬琴は大喜びしたが、実はその裏には老侯美作守道広(みまさかのかみみちひろ)の厚意があった。
彼が馬琴の本の愛読者だったために口をきいてくれたのだった。
◇病人の多い家
宗伯 少し無理をすると、嘔吐、下痢が一日70回
姑 百
ひどい頭痛持ち、癇癪持ち
癇癪玉はその日、一日はずーっと爆発し続ける
「きいーっ」
「とっととおやり」
「何をのろのろしているんだ」
このように病人が多い家では、みちは自分と同じように、義父も大変であろうと気の毒に感じるようになった。
みちは病気をしないけれど、義父は自ら病気をしながら、家をまとめていかなくてはならない。
この家では誰かが必ず病気になっていた。
百の腫れ物がよくなってくると、馬琴の具合が悪くなる。
百の体調が戻ってきたので、たまった縫い物、張り物などをしたら、今度は眼に腫れ物ができて頭痛がぶり返した。
おまけに宗伯は腹を下して一晩に下痢を二十回以上も起こす始末で……。
2. 「大丸」に買い物に行く 「先義後利の義商」
・家人の着物を買い調える。
ふだんはずっと家に籠っているからかもしれないが、買い物から帰ってくると子供のように目を輝かせてていた。
戯作者というものは、このように、女がするような反物や足袋の買い物も、いとわず楽しくするものかと、みちは改めて感心したのであった。……
・ (みちが跡取り太郎を生んだあと)馬琴は顔をゆるませながら、大丸に出向き、赤ん坊の衣類を買った。
・ (太郎の端午の節句のために)宗伯と一緒になじみの大丸に買い物に行き、菖蒲、宗伯が描いた鯉の絵、金太郎、桃太郎などの幟、吹流し、衣類などを誂え、そのなかのいくつかに瀧澤家の家紋である、八本矢車(はちほんやぐるま)を染め抜くよう注文した。
【 大 丸 】の歴史
「大という字は一と人を合わせたもので、丸は宇宙・天下を示す」ことから、天下第一の承認であれという業祖・下村彦右衛門正啓の志と決意が込められたものと伝えられている。
「先義後利」
元文元年(1756年)、業祖・下村彦右衛門によって「先義而後利者栄」を事業の根本理念として定める。
この言葉は中国の儒学の祖の一人、荀子の栄辱編の中にある「義を先にして利を後にする者は栄える」から引用したもの。
企業の利益は、お客様・社会への義を貫き、信頼を得ることでもたらされるとの意味で、言い換えると「お客様第一主義」「社会への貢献」となる。
これは、大丸グループ共通の精神、営業方針の根本となってきた。
創業
1717年(享保2年)、下村彦右衛門正啓が、29歳の時に古着屋「大文字屋」を屋号にした小さな店を京都の伏見に開く。
1743(寛保3年) 江戸進出と大きな風呂敷
大伝馬町に江戸店を開く。
開店にあたり、萌黄(もえぎ)色(黄緑色)に大丸のしるしを染め抜いた大きな風呂敷を大量につくり、京呉服を江戸に送り込む際に商品を包み込みました。そのため開店告知に大きな成果を発揮した。
当時大消費地である江戸に出店した大丸は、寛政年間には、大伝馬町の南側の裏通りを「大丸新道」と呼ばれるほど大成功をおさめ、日本屈指の大店として発展を続ける。
大塩平八郎は、1837年(天保8年)奉行に訴えを起こし、子弟数人と蜂起した。このとき富豪や大商人はことごとく焼き討ちにあったが、大丸は日ごろから暴利をむさぼらず徳義を重んじていたことがよく知られており「大丸は義商なり、犯すなかれ」と部下に命じ、焼き討ちを免れたと言い伝えられている。
「大丸マーク」 1913年(大正2年)縁起のよい七五三の髭文字を商標登録した。
(大丸、ウィキペディア、他)
3. 薬の材料、製造
熊胆黒丸子(くまのいくろがんじ)・・・癇癪、他
熊胆(くまのい)汁・・・腹痛(生まれて間もない女の子の腹痛に飲ませた)
馬琴が専売にしている、女性の血の道薬の「神女湯(しんにょとう)」「つぎ虫薬」
注文がきたらすぐに製薬する。
「奇応丸」・・・原料 沈香 鮫皮でおろす。
疥癬・・・薬湯に行く
宗伯の口の裏のできもの・・・馬琴が上皮を切開
血止めにあおじの黒焼きと寒の紅をつけておく
蓮肉粥(れんにくがゆ)を食べると少し元気になった。
馬琴、鼠に指を噛まれる・・・「犬毒、猫毒の妙薬」を服用
「一包は多かった。半包でよかったのだ…」と苦しんだ後、回復
煎じ薬
蒸し薬
散薬
吸い出し効果のあるバジリ膏
大小便の滞り・・・なめくじと田螺を酢で溶いて臍下に貼るとよい
なめくじを火であぶって白湯で飲ませた。
「ほら、こんなになめくじがいましたよ」…てぬぐいのなかからなめくじをたくさん採ってきた。…
興国の脱疽・・・蛭八匹に吸わせて汚血を出す
馬琴はせっせと効果があると聞いた洗眼薬や点眼薬を使って、視力を回復させようと必死になった。
4. 下働きの者の言い分
下働きの娘に会うのは、馬琴
二十三歳というものの、みたところ三十歳くらいに見えたうえ、大柄で品がなく、人品不可で帰された。
次に来た娘は十六歳で給金のことばかり聞いたので馬琴の機嫌を損ない帰された。
かつ 初日だというのに全くやる気が見られない。みちが頼み込んでも
来た翌日、馬琴に、「このお宅は気詰まりだから務まりません」と言い放つ。
なつ 幼児と赤ん坊を抱えてますます必要になったというのに、それを知っていながら、馬琴の引き留めも無視してやめていった。
まさ 滝澤家の弱味につけこんで、前借をしたり外泊をする。その上理由をつけて連泊して戻ってこない。
「母親が病気なので暇をくれ」とまさの隣の家の者に言わせる。
前借した分を清算せずにやめる。
たい 40歳 雇い入れたとたんに風を引いて寝込んだ。2日も寝込む。
宗伯に薬を調合してもらった。「早々に宿下がりさせろ」
せき 40歳過ぎ 家の中があたふたしているなか、たった半日で暇をくれといいだす。
来客の応対中だった主人の隙を狙い、昼食を食べた後、逃亡した。
21歳の娘 長い間勤める気はないというのを、家内が緊急事態になっているので雇い入れた。四人の体調が悪い中、やめていく。
次に来た者 子供は嫌いといい出したので、すぐに宿に帰した。
まき 中元の祝儀をやったりしたが、やめた。
次に来た娘 すぐやめた。
梅 いつまでたっても、粗末な木綿の袷一枚きりで過ごす。
前借したいとか、宿に行きたいとたびたび願い出る。
却下されると、露骨に腹を立て、腹一杯、夜食を食べた後、荷物を持って逃亡した。
新しく雇った娘 のみこみが悪くて、……
「そのようなことではいけないよ」と戒めると
それに腹を立てた娘は、荷物をまとめた風呂敷包みを持って逃げようとした。
馬琴は娘が逃げないように、風呂敷包みを奥の戸棚に入れるように命じた。
神田祭りを見物させる。しばらくやめるとは言わなくなる。
「こちらの弱味につけこんで、忙しくなるとぶつぶつ文句を言いだす」
再びやめるといいはじめたとき、怒った馬琴は即刻、やめさせた。
……
5、信心
一般の家よりずっと、神事が多かった。
己巳の日(つちのとみのひ)に弁天に祈る巳待祭、庚申(こうしん)祭、密教に関する節変わりの星祭、甲子(きのえね)大黒祭、稲荷祭など、そのつど、餅、茶、昆布などの供え物を準備しなくてはならない。
家の中は神様だらけだ。
占いの関帝籤
陰陽頭土御門家の浅野正親と懇意にしていて、弁財天の厨子を押し入れに安置して祀っていた。
◇七十歳にして馬琴、金策に走る。
孫のため、御家人株を買おうとする。
御賄方(おまかないかた) 代金 二百三十両
御持筒同心(おもちづつどうしん) 代金 百三十五両
御小人(おこびと) 代金 七十両
御持筒同心株を買うため、馬琴の算賀の書画会を開く。
それでも足らず、自分の目の黒いうちは、絶対に手をつけまいと思っていた蔵書を手放した。
◇解 説 (関川夏央氏)より
鏑木清方の一幅の絵
それは、日頃より狷介・吝嗇・非協調の老人が、芸術表現に没入して、雄渾豪宕にして波乱盤上、まさに妖夢のつづれ錦のごとき物語を吐きだす「虚実冥合」の絵画化であった。
さすが、一流の絵描きは一幅の絵に性格もろとも表現し尽くしているらしい。
早速、この絵を探しに行こうと思う。
久しぶりに、楽しい時間を過ごせた。
群氏に心よりお礼を言いたい、そんな心境です。
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