村上 英俊 (むらかみ 英俊)
という、フランス学者がいた。
文化8年4月8日(1811年5月29日)〜
明治23年(1890年1月13日)
洋学者・フランス学者
名は義茂、字は棟梁、英俊は通称
幼名は貞介という。
晩年は茂亭松翁と称した。
日本で初めてフランス語を習得した。
英俊の生家は旅籠
医学への憧れが強かった父に従い、
14歳で江戸に移住
妹が信州松代藩主の後継ぎの側室になったのを機に松代に移り、藩に士官。
18歳の時宇多川榕庵先生の門人となって蘭学を修めた。佐久間象山より先輩だった。
ここで、藩士で兵学者の佐久間象山に出会ったのがフランス語を学ぶきっかけとなった。
スエーデンのベルセリウスという学者の
化学の書物を手に入れたが、フランス語で書いてあるので読めない。
それが残念なのでその書物を、オランダ語に翻訳したものを改めて注文しようとしたら、象山が笑って
「今それを注文したところで、本の来るまでには、どうしてもニ、三年はかかるだろう。…
いっそフランス語を学んで、その本をすぐに読んだ方が早手廻しじゃないか。
フランスは、今学問も大変進歩しているということだ。
フランス語をやっても、決してむだになりはしないよ」と言った。
それから、
フランス語とオランダ語の対訳辞書を頼りに、ひとりでフランス語の勉強を始めた。
当時はフランス語の出来る人など、一人もいなかった。
火薬製造の知識を得ようとした象山。
英俊は、独学で挑んで、2年の苦学の末解読に成功する。(嘉永3 年 1850年)
後に
幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の
教授方や翻訳係となる。
「仏学始祖」と言われる。
フランス語の勉強に向かったのは象山先生の一言からだったので、見ようによっては、
象山先生によってフランス学がわが国に開かれたと言ってもよいことになる。
嘉永7年(1854年) 国内初の和英仏蘭対訳の単語帳「三語便覧(さんごべんらん)」
安政4年(1857年) 羅語(らご)(ラテン語)を加え、イロハ順に配列した対訳の単語帳「五方通語(ごほうつうご)」
国内初の本格的なフランス語辞書
「仏語明要」を刊行
この辞書は幕末以降、国内で広く用いられる。
明治18年(1885)年 日本でのフランス語にかかわる功績がたたえられ、フランス大統領から、日本初のレジオンドヌール勲章を授与される。
幕末に、フランス語学者がいた事に驚いた。
そして、学者たちの、その真摯さと情熱に圧倒される。
努力もさりながら、頭の良さが半端ない。
日本ってすごい国だと、改めて思う。
参考図書、資料
「おらんだ正月」 森 銑三 著
小出昌洋 編
他