蘭学者の熱意と誠実さ
蘭化は、豊前国(ぶぜんのくに)中津の奥平家に仕えていた医者で、呼び名を良沢(りようたく)という。
前野良沢としても知られている。
蘭化は、
「どうかこの学問のなりまするようお力添え下さいませ」
事が成就すると、
「…私が蘭学に志を立てたのはただ学問のためで、それによって名を売ろうの得をしようのなどというのではございません」
『…『解体新書』に名前などを出しては、その時の誓いに背きますから」
と、全ての功を玄白に譲る
青木昆陽を訪ね教えを受ける。
昆陽の亡くなる年のことで、危いところで昆陽のオランダ語を自分のものにする。
その時、蘭化は四十七歳
長崎のオランダ人たちが、将軍へ挨拶のために江戸へ出てきた。
杉田玄白と二人でオランダ人の宿家に行く
玄白(三十七歳)
蘭化より十歳年下
オランダ人の宿家で、通詞の西善三郎に会う
善三郎は、
「…私などは通詞の家に生まれて、子供の内からオランダのことに親しんで、もう五十にもなるのですが、まだまだ十分に話など出来ぬ始末ですよ。まして江戸にお出なすって、蘭語の勉強など出来るものじゃございません。断念なすった方がよいでしょう」と言われ
二人は失望して帰る。
しかし、凡人の凡人である私は思う。
あなたも頭のいい人でしょうけど、二人は天才ですよ。会わせてあげたら、きっと何かを掴んで帰るはず。四の五の言わずに会わせよ。
秀才では、天才を理解出来ないのだと、思った。もったいないことをしたもんだ。
いや、失礼なことをしたもんだ、と。…
でも、こう言えるは、後世だからだろう。…
その後 オランダ語の勉強が思うように運ばない中、
お殿様のお供をして中津へ行く。
その時特別にお願いして、長崎へ遣らせていただく。
百日ばかりも滞在して、通詞の人々から、オランダの書物も幾冊か買って帰る。
昆陽先生から習ったのと合わせて、
オランダ語の数が七百あまりになる。
七、八百くらいの単語の知識で
やがて『解体新書』のような見事な翻訳が出来た。
蘭化は、自分の家に玄白やその他の人々を集めて、まだ何も知らないそれらの人々にABCから教えてかかるので、その苦心は一通りではなかった。
半ば以上は蘭化の力に依って、ついにその困難な翻訳の仕事も成就した。
前述したように、全ての功を玄白に譲る。
この時の殿様 奥平 昌鹿(まさか)は、
翻訳のことにかかりきりで外も出ず家に閉じこもり、人との付き合いをしなくなった蘭化を悪く言う人々に
「其方たちが、役目に精出すのも勤めであろうが良沢がオランダの書物に夢中になっているのもやはり勤めなのじゃ。良沢はそれで、世の中のためになろうとしているのじゃ。遣りたいことを遣らせておくように」とお咎めにならない。
…その学問を端からお励ましになる。
号も、元は楽山といったが
ある時、殿様が戯れるに
「良沢はまるでオランダ人の化物じゃ」と仰
せられたので、
それから蘭化と改めた。
珍しい名前だと思っていたけど、そんな良い話があったのだ。
享和三年十一月十七日 亡くなる。
八十一歳
蘭化先生は実にわが国洋学界の一大恩人というべき人だった。
著者が、神に願掛けし、事が成就すると功を玄白に譲った蘭化先生の名を後世に伝えようとする熱意を感じる。
至誠は、万人に通じる。
参考図書 写真も
「おらんだ正月」 森 銑三 著
小出昌洋 編