二宮尊徳像 なぜ撤去?
全国の小学校で老朽化や学校立て直しなどに伴い、二宮尊徳像が撤去される現象が進んでいるといいます。
その背景には、「児童の教育方針にそぐわない」「子どもが働く姿を勧めることはできない」「戦時教育の名残という指摘」「『歩いて本を読むのは危険』という保護者の声」
などもあるといいます。(2012年1月25日付『毎日新聞』)
だいたいがこのような意見だったようです。
そして、最近は「歩きスマホ」問題も。
☘わたしの故郷の学校でもいつの間にか撤去されていました。
金次郎は、なぜ歩いている時まで本を読んでいるのか⁈
ヒントになるものを「代表的日本人」(内村鑑三著)の中に見つけました。
それによると、寝る間も惜しんで勉強しようとしても、伯父は許さなかった。
親のない子供に一切の思いやりを示さなかった。
それに対して、「伯父の言うことはもっともだ」と、言い分を受け入れた。
金次郎は、14歳の時父を、16歳の時母を亡くす。
金次郎と二人の弟が残されるが、一家離散となる。
金次郎は、父方の伯父の世話を受けることになる。
この若者は、できるだけ伯父の厄介になるまいとして、懸命に働いた。
「目明き見えず」、すなわち字の読めない人間にはなりたくないとの思いが起こる。
孔子の『大学』を1冊入手する。
深夜に古典の勉強に励むも、伯父に見つかりこっぴどく叱られる。
貴重な灯油を使うとはなにごとか!と。
金次郎は、自分の油で明かりを燃やせるようになるまで、勉強をあきらめる。
わずかな空地を開墾してアブラナの種を蒔く。
1年後、大きな袋いっぱいの菜種を手にする。
おまえの時間はおれのものだ、おまえたちを読書のような無駄なことに従わせる余裕はない!と言われる。
それ以後、金次郎の勉強は、伯父の家のために、毎日、干し草や薪を取りに山に行く往復の道で行われた。
金次郎は、伯父に文句を言われない方法を考えだした。
干し草や薪を取りに山に行く往復を勉強の時間に当てたのだ。
それを、熱心、勤勉と後の人々は讃えたが、現実はもっと厳しいものだった。
☘ 恐らく今も昔も、他所の家に養われることは、辛いものだ。
その後、洪水により沼地と化したところを田圃にする。
農民から捨てられている苗を拾ってきて植えた。
秋には2俵もの米が実る。
数年後、伯父の家を去る。
自らの手で収穫したわずかの米を携えて両親の家に戻る。
一人の孤児が つましい努力の報酬として、人生ではじめて生活の糧を得た。
「自然」は、正直に努める者の味方であることを学ぶ
その後の活躍は、誰もが知るところ。
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新渡戸稲造「武士道」、岡倉天心「茶の本」と並ぶ、日本人が英語で日本の文化
・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作
内村鑑三(1861~1930)が、奔流のように押し寄せる西欧文化の中で、どのような日本人として生きるべきかを模索した書(表紙カバーより)
二宮尊徳ー農民
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🖋🖋🖋 もう一つの疑問
金次郎は、長男なのに、なぜ金次郎なの?
🌼 以前は金治郎と正しく呼ばれていたこともあったらしいですが、金次郎が一般的となっているようなので、通例に従っているということらしいです。