海舟邸の玄関の様子を書いた人がいる。
明治二十年十二月六日。依田学海(よだがっかい)は海舟邸に訪問していろいろ聴くところがあった。
そのことを日記に書いている。勝氏の家の様子までも書いてくれている。
著者は、特別の興味を持った。
「勝氏の住まいは、古い旗本の屋敷であろう。汚いというのではないが、いたく古びた、質素な家である。
門から玄関まで、石が敷いてある。玄関は極めて小さい。
幅がようよう一間あまりで、左右に提灯が立ててある。
上がると、そこは三畳ほどの一間で、それから狭い廊下を通って、居間の入口まで行った。
その時、取次の小娘が、主人は病気で臥せっております。無礼はどうかお許し下さいませ、といって、戸を開けてくれた。
室に入ると、そこは六畳あまりで、二枚の屏風が立て巡らしてあり、海舟氏は蒲団の上に座っていた。
居間の向こうは庭らしいが、ガラス障子が閉めてあるので見られない。
壁の隅には棚があって、その上に、反故ようの小冊子が積み重ねてある。
室には熊の毛皮が四枚敷いてあり、火鉢には、助炭(じょたん)とかいうものが掛けてある。
室内には何の飾りもない。
まるで貧士の住まいだといおうか。
茶や煙草盆の給仕は、先に取次をした小娘がする。
外には四十恰好の女がいて、手紙や文房具の類の出入れをする。」
・・・・・
「学海は、その時代に生きた人ではあるが、海舟の談話からは、得るところが少なくなかったらしい。」
「学海は、まるで貧乏侍の住まいのようだとしている。」
「伯爵にも列しながら、海舟はそうした暮らし方をしていたのである」
「もう世は明治の二十年だというのに、旧幕時代そのまま、左右に高張提燈を立てていたなどというのが、風俗史的にも感興が深い」
「海舟は夙に蘭学を修め、幕末に既にアメリカへも渡航している人である。」
新知識人の一人だったが、西洋かぶれしていない!
かえって旧式な、時代遅れともいうべき生活をしている!
伯爵邸の玄関に提燈が立ててあった!
民友社から『勝海舟』という書が出る。それに海舟の居間の図が載っていた。
正面に床の間があって、長短の二幅が掛けてある。
床の間の右の端に、小形の本箱が一つあり、その隣に、小机が二つ重ねて置いてある。
普段着らしい和服の海舟が、その床を背後にして、左の障子寄りに座しており、前に円い筒形の火鉢があり、低い屏風が立ててある。
室の内には、熊の皮ではなくて、小ぶりの絨毯が一枚敷いてあり、その上に、来客のためらしい座布団が一つ置いてある。
なげしに隷書で「海舟書屋」とした、小さな額が掛けてある。
前側の右の端に、時代物らしい地球儀が画き添えられてが、それを除いては、西洋臭い物はない。装飾らしい装飾がない。
鈴木桃野(とうや)は、
江戸の文人は、京阪の文人たちのように風雅めかすことなどしない、
博奕に譬えるなら、裸ばくちというものだ、と気を吐いている。
海舟も正(まさ)しく、裸で勝負をしようという人だった!
明治の二十年になっても、なおかつ昔ながらの状態で生きていたことに、
奥ゆかしさを感じる、と著者は言っている。
幕末を生き抜き、明治という新時代を興した人は、やはり只者ではなかった。