四十一石の小普請組に属する無役の御家人の家に生まれた。貧乏は当たり前だったらしい。
海舟が結婚したのは、弘化2年(1845年)23歳の時で、花嫁は2つ年上の25歳の深川のいわゆる羽織芸者出の民子だった。
その当時の様子を書いた、海舟自身の記事によると
「弘化四年丁未秋、業につき、良く中秋ニ日終了。予この時貧骨に到り、夏カヤ無く、冬夜衾無し、唯日夜机によりて眠る。しかのみならず、大母病床にあり、諸妹幼弱、事を解せず、自ら縁を破り柱を割って炊く」とある。
蚊帳も布団もなく、縁側の板を破り、柱を削って米を炊くという、まさに「貧骨に到る」状態を書いている。
「ほんにこの時分には、寒中足袋もはかず袷一枚で平気だったよ…体は鉄同様だった」と後年述懐している。
このような状態の家に、深川芸者民子は嫁いでいる。よほど海舟に惚れ込むところがあったに違いないと本に書いてある。(日本史有名人の苦節時代 新人物往来社)
そりゃそうでしょ。
海舟ほどの人間は、「この人なら」と思わせるオーラのようなものがあったと思う。
この頃、海舟は
オランダ語の蘭和辞書『ズーフ・ハルマ』五十八巻の書写を行なっている。
この辞書は、当時60両もした。
蘭方医の赤木某が所蔵していると聞くと、年間の損料10両で借り出しに成功し、ただちに書写にとりかかる。
「日夜机によりて眠り」筆写に取り組む。
そして1年、
「国難ここに到り、又感激を生じ、一歳中、2部の謄写成る。その一部は外にひさぎ、その諸費を弁ず。嗚呼、この後の営業、その正否の如き、知るべからず、期すべからず也。勝義邦記」
と記している。
つまり、蘭和辞書『ズーフ・ハルマ』五十八巻の筆写本ニ部を完成し、一部を売って金にしたのだ。
その後、長崎海軍伝習所行きを拝命する。
その瞬間、小普請組からの脱出に成功した。
「貧骨に到る」時代とは無縁の世界を生き、
明治32年(1899年)77才で人生の幕を閉じた。
民子のその後
海舟との間にニ男ニ女をもうける。海舟は、貧乏から解放されると各地で妾を作り、民子に苦労をかける。しかし、民子は自分の子供も妾の子供も分け隔てなく育て「おたみさま」と慕われた。
亡くなる前に「頼むから勝のそばに埋めてくれるな、私は小鹿(息子)の側がいい」と言う遺言を残している。
勝の死から6年後(明治38年)死去
幕末の激動期を生きた人の生き方に興味があった。
勝 海舟の物語は、貧乏の凄まじさとともに、それに立ち向かう激しさに息をのむ思いだ。
今だったら、役所に生活保護の申請にいく案件だろう。
何故、正面から立ち向かえたかと考えると、「武士の誇り」があったからではないか。貧乏であっても武士は武士、町人とは違うというものがあったように思う。
◇ 参考図書
日本史有名人の苦節時代 新人物文庫
高校日本史に出てくる歴史有名人の裏話
新人物文庫