私たちは、踏み絵といえば、キリスト教信者を見つけだす手段というふういうに考えていますが、実に、日本人はそれをお祭りにまでしてしまっていたことを知りました。
吉村 昭 著「ふぉん・しいほるとの娘」(新潮文庫)の中に出ています。
あの時代のキリスト教信者に対する処罰の残酷さはよく聞きますが「祭り」とは?
18世紀中頃には、長崎の正月行事の一つとなり、長崎奉行所では毎年正月(旧正月)に、町順に絵踏みを行うことが正月行事の一つであった。
このことから「絵踏」は、春の季語とされている。(ウイキペディア)
奉行所に人が集まる、商売ができると「踏絵」の日には市が立つようになりました。そして、「絵踏」が終ると「厄落とし」までしていることが書いてありました。
「ふぉん・シーボルトの娘」によると、
… 絵踏みを終えた祝いの準備をするよう命じた。
… その祝いは、家族の者たちが切支丹(キリシタン)だと疑われずにすんだという安堵よりも、キリスト像に対する嫌忌によって起こるいまわしい災厄を避ける厄払いの意を含んだものであった。……
酒宴がはじまり、三味線をひく者もあらわれた。…
… 路上を太鼓の鳴る音が近づき、店に万歳(まんざい)がやってきた。
… 絵踏みの厄払いの文句を歌いながら静かに舞った。
… 町の中は、夜おそくまでにぎわった。
隙あらば「ちょっとでも金儲けを」「ちょっとでもいい思いを」という人間のたくましさと考えればいいのか、「絵踏」に対する憂さ晴らしと思えばよいのか迷います。
丸山の遊女たちも、ここぞとばかりに豪華な衣装で「絵踏」に訪れ、素足をみせて、
一寸の間、周りの人たちに眼の保養をさせたりしています。
新年のお祝いの時に奉行所に集められると、いうのは気分のいいものではないはず。
ただ奉行所としては、家族の者が一堂に会するいい機会で、「絵踏」の仕事も一挙にはかどるということがありました。
庶民にとっては、お正月の行事を中断されたような感じだったのでしょうか。
宴会があちこちで開かれ、万歳(まんざい)が来て場を盛り上げ、最後は「後賑やかし」という厄落としをしています。
いつの時代も庶民は逞しいというのが、私の感想です。
キリスト教の信者は、どのような思いだったでしょうか。
「絵踏みして 生き残りたる女かな」(高浜虚子)
という和歌があります。
この女性が生き延びられて良かったと私は思います。
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資料
文政8年の正月
丸山の絵踏みの日 賑わいをきわめた。
其扇(そのおおぎ・19歳)の絵踏み衣装は、前年のものよりも華麗で、素足を見せて絵板を踏む彼女の姿に多くの見物人たちの間から嘆声がもれた。
※ 其扇(そのおおぎ)は遊女の時の源名、
後のシーボルトの妻、滝
「オランダお稲」の母
絵踏みと踏み絵
絵踏み:江戸幕府が、キリスト教の信者を発見するため、人々にキリストやマリアの像を踏ませた行為のこと。踏むことができれば、信者ではないとされた。
踏み絵:絵踏みの時に使われた、キリストやマリアの像が描かれた絵・木版・銅板などのこと。
※ 絵踏、踏絵の表記に特に決まりはないようです。
【おらしょ通信】Vol.284「正月の絵踏(えぶみ)」
江戸時代の長崎
キリシタンを摘発するために人々に聖画像を踏ませるという制度は、
1628年に長崎奉行行水野河内守が始めたと言われています。
1月3日に町年寄が行い、4日から7日までは町民を対象に、8日には丸山の遊女たちの絵踏みが行われたそうです。
【長崎市】
日本三大花街として賑わった丸山に生きた遊女たちの特色を ♪
正月4日から長崎では踏絵が行われていた。
病人には病床で踏ませ、動かれない者には足に絵板をあてた徹底したものだった。
9日で絵踏みは終わるが、8日の丸山遊女の絵踏みはとにかく華やかなものだったという。
その日の遊女の衣装は絵踏み衣装と言われ、馴染の男たちは競って美しい衣装を贈ったのだとか。
「後賑やかし」
絵踏みが済むと「後賑やかし」と呼ぶ、厄払いの盛大な祝宴が行われたそうです。
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