かつて、「いも、たこ、なんきん」は、女の子の好物と言われていた。
私は、芋があまり好きではなく、何となく引け目を感じていた。一応女子なんやけど、と。
なんで、あんな胸やけするものが好きなのかと不思議だった。(今は、好きで食べている)
しかし、さつまいもは太ると言われるようになり、こっそりと食べられるようになる。(だった気がする)
そして、健康ブームがやって来た。
さつまいもは準完全食品、ダイエットに効果があると発表されて、大変なブームとなっている。
おやつに食べるなら、さつまいも!と言われるくらいだ。
さて、さつまいもが我が国に根付くまで、三人の功労者がいる。
1597年 中国から持ち帰った宮古島の役人
「長真氏旨屋」
1604年 別ルートで中国から沖縄本島に持ち
帰る(琉球)
「野國総管」
1705年 琉球から薩摩へ持ち帰る
「前田利右衛門」
そして、時は暴れん坊将軍、八代徳川吉宗の時代の儒学者「青木昆陽」が全国に普及させる。
1732年 享保の大飢饉が発生
この頃の日本は米に頼っていたため、日照
りによる飢饉がよく発生していた。
青木昆陽は、「唐芋」に目を付ける。
「蕃藷考」を著す。
薩摩から取り寄せたので「薩摩いも」
と言う名前が定着する。
昆陽は「甘藷先生」「いも先生」と呼ば
れる。
いも先生は、それだけでも功績は偉大だ
が、さらに、我が国に西洋の学問を開いた
人だった。
そしてまた個人としての昆陽は、行いの正
しい立派な人だった。
昆陽の住んでいた八丁堀の地主は、町奉行
大岡越前守忠相(ただすけ)の組下の与力
で、加藤枝直(えなお)といった。
又、この人は名高い国学者加藤千蔭(ちか
げ)のお父さんでもあった。
昆陽が6年の喪を勤めたことに感じ入り、
そのことを越前守に告げた。
6年の喪とは、父親の死後3年、母親の死後
3年合わせて6年間喪に服したという意味だ。
越前守もほとほと感心して、「何か心得て
いることがあらば、認め(したため)て出す
ように」命じる。
昆陽は、島流しになった罪人たちには、五
穀が不自由なため餓死する者の多いこと、飢
饉年の食物にはさつまいもに勝るものはない
と考えていた。
お達しがあったのを幸いに『蕃藷考』とい
う漢文の著述に、それを仮名書にしたものを
も添えて差し出した。
越前守から将軍吉宗にそれをお目にかけ、
大変喜ばれる。
離れ島の罪人も、飢饉に遭った人々も、以
後は餓死しないようになる。
に、西洋の学問をすることを一切止めてい
た。
吉宗によって
御書物奉行にまで出世していた昆陽にオラ
ンダの学問をすることを特に許される。
長崎まで出かけて蘭学を修める。
昆陽先生は、蘭学の開祖だった。
「いも先生」「甘藷先生」と慕われた昆陽
は、顔にひどいあばたがあった。あばたのこ
とを「いも」というところから、両方に掛け
たのだろう。が、先生は気にかけることはな
かったという。
72歳で亡くなる。(明和6年10月12日)
生前に自分の墓を
下目黒の目黒不動の裏手に立てる。
初めて薩摩芋の試作をした下総の幕張に
は、先生を祭った昆陽神社がある。
東京の芋屋さんたちは、毎年昆陽先生の
お祭りをする。
と、著者は書いている。
今も行われているのだろうか。
大きな恩恵を受けている私たち。
いもを頬ばる時は、先生のことを思い出し、
感謝しつつ味わいたいと思う。
参考図書
「おらんだ正月」森 銑三著 小出昌洋編
「歴史風味」