emilyroom’s diary

徒然なるままにブログ

認知症日記❣️

「父と娘の💌認知症日記」

 認知症専門医の父・長谷川和夫が

  教えてくれたこと

      (中央法規)

……

切り抜き

……

 

認知症を公表したときの取材で 

 

認知症と診断されてショックですか?」

「最初に気づいたのはいつ頃ですか?」

「なぜ認知症を公表したのですか?」

 

と、似たような質問を繰り返し受ける。

 

こんな質問をしてくれる人が来ないかなあ

☆「認知症を公表されましたけど、これからやりたいと思うことはありますか?」

☆「今、臨床の現場に戻れたら患者さんにどんな言葉をかけますか?」

          (p.25 元気が出ない日)

 

長谷川先生は、聖マリアンナの元前田理事長に

「あなたが認知症になったらば本物の研究者だよ」といわれる(p,82)

 

その言葉どうりに、認知症になってからも、認知症について発信し続けられ、一生を、認知症の研究に捧げられた。

 

「呆け」、「痴呆」と言われて不快なもの、差別的扱いが多かった時代から、今は、それが生活習慣と老化によるものであることが明らかになっている。

 

 一人の情熱が、「認知症」をわけのわからないもの恐ろしいものから、病気であること回復が可能であることを明らかにした。もちろん、その周りには、同じ情熱をもって「痴呆」を何とかしようとした、医学者、医療従事者等々、その他の人々がいたことも事実だ。これらの、「なんとかせねば」という思いがなければ、今の状況はないと思う。

その中で、一番の功労者といわれる長谷川先生。

 

 

長谷川先生は、長谷川式簡易知能評価スケール(HDS)の生みの親(1974年)

 「痴呆の判断について、認知機能がどの時点に下ってきたときに痴呆とするか、君の見立てのブレをなくすために “ものさし“を作ったらどうか?」と新福先生に言われたのがきっかけ。

 

1974年 長谷川式簡易知能評価スケール(HDS)を学会で発表

 

認知症スケールの手引き書(HDS=R)

2020年1月 改訂長谷川式簡易知能評価スケール(HDS=R)の手引き(中央法規出版)を共著で出版

 長谷川式認知症スケールが正しく行われるためのDVDをつくる。

 加藤伸司氏(共同研究者)等と懇談

 

大学病院にデイケアを作る。(1983年)

 日本で初めて認知症の患者さんとそのご家族を対象にしたデイケア

 「水曜会」(~1996)

 

 私がデイケアでもっとも良かったと思うことは、認知症の人とご家族に人と人との絆をつくったことかと思います。

 認知症になると著しい記憶の低下や認知障害のために自分と物、自分と場所、自分と他者との関係性が損なわれてしまいます。

 そこで介護者がご本人の心をおしはかって、

言葉や理屈ではなく、和やかなフィーリングや温かい微笑みを表現することで絆というか関係性をつくることが、認知症の人に安心感を与え、居場所をみつけるきっかけになります

 また、ご家族同士もお互いの苦しい体験を共有して、助言し合ったり、励ましあうことで強い絆が育まれました

ご家族でなければできない介護があることを学ばせていただきました。 

 

 

この頃の認知症の扱い

 「呆け」「痴呆」と呼ばれていた。

 「恍惚の人」(有吉佐和子)大きな反響

 

「ボケたらおしまい」

「何もわからなくなった人」

と、ひどい偏見にさらされていた。

 家では座敷牢のようなところに閉じ込められ、精神科や老人専門の病院でも、ベッドに縛りつけられている姿が当たり前のように見受けられた。

 

「痴呆」から「認知症」へ

 2004年 国際アルツハイマー病協会第20回国債会議(京都会議)

 組織委員長を務める

 クリステイーン・ブライデン(オーストラリアから)さんの講演

 日本人の認知症の当事者 越智俊二 自身の体験を語る。

 スタンディングオベーション

 家族にも積極的にかかわっていただく。

 

 「痴呆に替わる用語に関する検討会」のメンバーになる。

 「認知症」を提案

 

 超高齢化時代になって、認知症は誰にでも起こりえる状態と言えますが、呼びやすく、使われやすい用語になったことは一つの前向きなステップです。

 

 

2017年10月 88歳 自らの認知症を公表

 

「心は老いるか」(読売新聞社)1992

 ヘルマン・ホイヴェルス 「最上のわざ」(「人生の秋に」春秋社)

  … 高齢になっていろいろなことができなくなっても、祈ることはできる …

 神谷美恵子「生きがいについて」(みすず書房

  … 生きがいには「生きがいの対象となるもの」と「生きがいを感じる心」の二通りがある …

 

家族介護と介護保険制度

… 介護や子育てといった家族機能は著しく低下している。

 家族介護は虐待という現象を起こしている。

 これは、「一生懸命お世話したい」という気持ちと「思うようにいかない」という現実とのgapが根底にあるからだ。

 介護保険制度は、福祉に対する国民意識を変える上で大きなイミをもっている。

 それは介護serviceという給付には必ず負担が伴うということ。

 福祉はタダ → 痛みを伴う。市町村が保険者になった。(日記 2000.10.)

 

「パーソンセンタードケア」を理念に

 2001年 認知症介護専門職を育成する「高齢者痴呆介護研究・研修センター」(当時)が設立され、初代東京センター長に就く。

 

 トム・キットウッド 「パーソンセンタードケア(その人を中心としたケア)」

  『 the person comes first』

 

 …… それまではキッドウッド氏が指摘しているように「認知症」の人であったのが、認知症の「人」と、当事者(人)をより大きくとらえることを心がけるようになりました。

治す医療を目指すにしても 

ことに認知症の医療の場合には癒しを目指す医療であり、寄り添う医療、ご本人の暮らしを支えようと考える医療が大切であると思うようになりました。

 

 ※「痴呆」から「認知症」へ (2004年)

 

 

キンセン (谷川俊太郎)の感想

 

 私たちは認知症の方の物語を共感を持って聴くことが非常に大切です。

 自然に心のなかに生まれてくる内的体験、心の物語を温かく受け止めて支えていくことがケアだと思います。… 。

 ことに谷川さんの詩は、何も言う術を持たない認知症の人が心の琴線にふれる体験をされていることをうたったものと思います。

 そしてそれを感じとる詩人の「ケアする心」に深い感動を覚えました。

… 。

 

 キンセン  谷川俊太郎

 

 「キンセンに触れたのよ」

 とおばあちゃんは繰り返す

 「キンセンって何よ?」と私は訊く

 おばあちゃんは答えない

 じゃなくて答えられない ぼけてるから

 じゃなくて認知症だから

 

 辞書を引いてみた 金銭じゃなくて琴線だった

 心の琴が鳴ったんだ 共鳴したんだ

 いつ? どこで? 何が 誰が触れたの?

 おばあちゃんは夢見るようにほほえむだけ

 

 ひとりでご飯が食べられなくなっても

 ここがどこだか分からなくなっても

 自分の名前を忘れてしまっても

 おばあちゃんの心は健在

 

 私には見えないところで

 いろんな人に会っている

 きれいな景色を見ている

 思い出の中の音楽を聴いている

 

   朝日新聞2008年9月5日夕刊

   「谷川俊太郎 9月の詩」

 

心身の変調を自覚

 (前略)講演として約1時間くらい話した。とこらが自分が何を話すべきかときどき分からなくなった。3回位おきる。何とかゴマかしゴマかして終わった。(後略)

   (2015.10.1)

 

 認知症を公表(2017年10月9日)88歳

  嗜銀顆粒性認知症(しぎんかりゅうせいにんちしょう)と診断される。

 

 この本によれば、「もう講演はやめたら」というようなことを度々周りの人に言われてこられたらしい。しかし、

 ご家族は、本人の意思を尊重し、できることは何でもやってもらおうと考えておられた。

 そのお蔭で、私たちは「認知症」について理解を深めることができている。

 

 この病気のおもしろいというか、良いところは、一気に症状が進むというよりは、できるときもあるし、できない時もある、という感じで進行していくことが多いので、家族や介護者の手を借りることができれば、結構長い間「老後」を楽しんで生きることができることだ。

 長谷川先生が良いお手本となってくださる。

 

パーソンセンタードケア

   (2019年9月)90歳

 

 もの忘れだけでなく、身体的には心臓が弱ってサチュレーション(酸素飽和度)の値が低く、めまいを起こすことも増えていたが、父はメディアの取材をできるだけ受けていた。「人様の役に立ちたい」という思いが父にはあるのだ。

 

取材で語る

「パーソンセンタードケア」とは、その人の立場に立って、その人が一番利益を得るケアということですが、

そのためにはその人のことをよく理解しなければなりません。

認知症の人にも一人ひとりユニークな個別性があります。

独自の内的体験や自分史を持っており、それがその人の尊厳を形づくっているのです。

これがパーソンフッドという概念であり、その人らしさを中心に置くケアこそが人の尊厳を支えるケアなのです。

 

「日本は高齢社会のトップランナー。世界中が注目しているんだよ。どんなケアをしているか。認知症の人が尊厳を持って共に暮らしていける社会をつくっていくためにも、発信していかないとね。今日は良い質問をしてくれて、ありがとう」

 

91歳の誕生日(2020年2月5日)

 「でもね、僕、103歳まで生きようと思うの」

 「うん! 100歳を超えてみたいと思って」

 

神様が与えてくださった使命 (2020年5月14日)

 父は自分が認知症になったことを決して喜んではいなかった。今も自分の体や精神がどうなっていくのか不安だと言っている。

ただ、認知症になったのには

「きっと理由があるに違いない」とも言っている。

神様が与えてくださった使命なんだと。だから甘んじてそれを受け容れて、自分が役に立つことをやっていきたいと思っているのだ。

今を大事に、未来につながるように、と。

 

コーンパイプ、クロワッサン、音楽、映画が好きだった長谷川先生。

愛妻家で、家族思いだった先生。

奥様と、時には、まったりした時間を過ごされていた先生。

人間としても、素晴らしい方でした。

 

 

・・・・・・・・・・

 

  一人の情熱が、認知症の認識を一変させたことに感動しました。

 それほど、「痴呆」「呆け」は、衝撃的な病気だったのですね。

 そして、多くの人が心を痛めていたことを感じました。

 現在、「パーソンセンタードケア」は、常識となり徐々に受け入れられてきています。

 長谷川先生をはじめとする研究者の方々に感謝、感謝です。

 

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ボクはやっと認知症のことがわかった 自らも認知症になった専門医が、日本人に伝えたい遺言