面白いです。
歴史に弱い私でも読めました。
肩肘張らずに読めます。
この本は、GHQ「焚書」扱いされましたが、心ある人達が残しておいてくれたのを見つけて出版されたものです。
本の帯に
GHQが禁じた明治日本の真の姿
激動の時代を駆け抜けた男たちは
何を思い、何を目指して生きていたのか
と書かれています。
これが全てです。
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[復刻版]
大衆明治史(上)菊池 寛著(ダイレクト出版)
ー建設期の明治ー
第1章 廃藩置県
版籍奉還の上表
上表:君主に文書を奉ること。またその文書。上書。
維新史のピリオドを打つのは、明治四年の廃藩置県と云ってよいだろう。
大政奉還で、先ず幕府が倒れ、廃藩置県で、封建諸侯が自然的に崩壊して、
茲(ここ)に全く新しい、朝廷を中心とした、明治中央政府が、
日本全国にその統治の実権を伸ばしてくるのである。
廃藩置県から、実質的な明治史の領分に入って来ると云うことも云えるのではないかと思われる。
兎に角、この明治四年、廃藩置県までの日本と云うものは、今日我々が考えている以上に、多難であり、それだけ元勲諸侯も死力を尽したのであると、泌々(しみじみ)考えられる。
明治の二大会心事
① 完璧な封建制度の打破
② 血を見ずして、憲法が発布された
併し一部進歩的な具眼者の中には早くから萠していて、その先駆としての
版籍奉還は、早くも明治二年に行われているのである。
…… 諸侯がなお土地人民を私有していては、真に維新の目的が達成されたと云われない。
この土地人民を朝廷に奉還し、復古の大業を完成しなくてはならぬと考えていたのである。
版籍奉還の上表
明治二年の四大藩主連署(島津忠義、毛利敬親、鍋島直大、山内豊範)
明治新政府の不安
時勢は確かに一新された。
…… 余りにその結果が予期以上に烈しく且つ軽薄なことに対して、嫌悪を感じない筈はないのだ。
頭を丸めたことは、西郷の懐古的な気分の一つの表れであろうが、
本当は、廃仏毀釈が、この辺まで行われたことに対する、激しい憤りに発する抗議なのである。
明治維新の精神的な原動力が、復古であり、祭政一致の社会を一つの目標としたものである……
神祇官を先ず、復興して、その理想の実現に邁進したことを以ても分かる。
……
この神祇官のやった、最初の仕事が、神仏の分離なのである。
……
併しこの政策は、今まで比較的不遇であった神主、社人を必要以上に煽て上げることになり、国学者や神官の一部には、猛烈な毀釈運動となって、諸方の仏寺をブチ毀し始めるに至った。
…… 市民平等だの、民兵採用だの成り上がりの役人達の空威張りだの一体に極端に流れ、形式に堕した明治新政府の動向に白眼を向けたのは、ただに西郷一人ではなかったのである。
明治三年七月、時弊を慨して、正院の前で立腹(たちばら)を切った、森有礼の実兄、横山安武の時弊十条
……
主として政治道徳の頽廃を嘆じた、抽象的なものであるが、西郷は口を極めて激賞し、後年その碑文まで書いて弔った程である。
封建の余幣未だ牢固たり
明治二年から四年の廃藩置県にかけての、新興日本は、非常なピンチの中にあった。
……
維新大業に於ける薩長の功労は圧倒的だ。
併し彼等とても、公儀与論の声に圧せられて、思い切って新政に臨むことが出来ない、まして他の群小の藩の有力者たちに、何も積極的に出来るわけはない。
新政最大の弱点は、実にこの、政治に中心勢力がないことであった。
大久保利通の転向
皇政復古の美名も、必ずしもその実を伴っていなかったのである。
……
この形勢に対して、先ず大いに憂えたのは、大久保甲東であった。
……
公儀、輿論など、亡国的俗説だ。薩長専横と云わば云え、今日に於いて、薩長の実力に依らないで何が出来るか。
……
多少の摩擦変乱は止むを得ない。即今幸いに外患がないから、多少の内乱恐るるに足らずだ。
要は一刻も早く、国内統一し、国家の基礎を確立して、外国に対抗せねばならん、と云うのである。
正に百八十度の転向である。
岩倉、木戸の同意を得て、一路薩長聯合に向かって突進した。
西郷の出馬
誰を中心にして薩長をまとめていくか。
それは勿論西郷を措いて他に人はない。
……
殊に武士階級の間に於ける西郷の人気と信頼は圧倒的である。
徴兵令や廃藩置県などの漠然とした気運は当時の士族を不安に陥れている。
武士の特権喪失に対する反抗は、各地の騒擾や顕官の暗殺頻発を見ても判る。
西郷の中央引き出し
弟の従道
勅使派遣(大久保)
西郷の中央政府入りの最初の政策は、朝廷の新兵設置である。
直ちに薩長土三藩の徴集が決まり、……
同時に、鎮台制度が布かれて、……。
同時に西郷は政府の改造に成功して、自ら参議となって、
大久保の企図する、
薩長の鞏固な独裁政治が一応完成されたのである。
廃藩置県の断行
「貴公等に、廃藩実施の手順さえ附いておれば、その上のことは拙者全部引受ける。暴動が各地に起きても、兵力の点なら、御懸念に及ばぬ。必らず鎮圧して、お目にかけましょう」
(その一言、待っていました)
後に主上からの御下問に対しても、
恐れながら吉之助が居りますからと奉答して
叡慮を安んじ奉っているのである。
…七月十四日 疾風の如く廃藩令が下ったのである。
……全く他の意表に出て、恰も陰雲漠々、将に雨ふらんとする前、すなわち雷霆の下撃せしごとく、人々相顧みて、一言半句もなく顔を見合わせて、相共に令に応ぜしに似たり ーー 鳥尾小弥太「国勢因果論」
島津久光(藩主忠義の父、事実上薩藩の主権者)は
花火を揚げて、不満を爆発させたと云う。
西郷の苦衷
廃藩置県の大仕事が済んでしまえば、もう西郷は必要としないのである。
西郷の好み相にもない政策が次つぎと生まれて来る。
八月九日、散髪脱刀許可令
八月十八日、鎮台を東京、大阪に置き、兵部省に属せしむ。
八月二十三日、華士族平民婚嫁許可令
等々、四民平等、士族の特権はどんどん剥ぎ取られて行く。
西郷は城山で戦死する時でも、
「百姓上りの官兵は可哀相だから、捕えても免してやれ」
と云っている位である。
兵隊はどうしても武士でなければならぬと、固く信じているのだ。
チョン髷を切れの、刀をとり上げるの、まして百姓町人から兵隊を採用するなど、どうしても西郷にはピンと来なかったらしい。
西郷は明治維新の大立物であった。
しかし、時勢は既に西郷を乗り越えて進み始めたのだ。
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与謝野晶子の「君死に給うことなかれ」を反戦歌として持ち上げる人は多いが、「町人の考えること」と「武士」は一顧だにしなかった、という話を思い出しました。
これから、この本は、ますます面白くなっていきます。
是非、手に取って読んでみてください。
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