emilyroom’s diary

徒然なるままにブログ

蘭学を拡めた 大槻磐水

 蘭学を拡めた功労者 大槻 磐水

 

 一関藩 

 建部 清庵  オランダ流外科医

  オランダ流の医術

    膏薬や油薬(あぶらぐすり)などを使

   って外科の療治をするだけのことで

    ただいい伝えにそう唱えているだけ

    いつ誰がオランダ人から習ったのか分

   からない、至ってあいまいなものだっ 

   た。

  

  外科ばかりで内科がない

  本当の医術を学びたい

  ー と思っていた。

 

  自分の疑問を箇条書きにして、

  江戸へ修行に行く門人に渡して

  「江戸は広い所だから、立派な蘭学の先生

 も定めし居られることだろう。その人を尋ね

 出して、この質問に答えてもらってくれ」と

 頼む。

  門人は、三年目に探し出す。

  小浜藩の医者 杉田玄白先生

  清庵の質問書をみせると

  大変喜んで、すぐに書面で答えた。

  清庵の喜びは言葉に尽くせない。

  二人は、手紙で交際を続ける。

 

  ニ番目の息子を玄白に入門させる。

  磐水(22歳)も三年間のお暇をもらって一

   緒に入門する。

 

 蘭学を勉強することは、

 最初は、聞き入れてもらえなかった。

  「オランダの学問はは難しくって、三年や

  四年で到底出来るものではない。

   蘭学を生齧りしただけで、何にもならず

  に国へ帰るより、実際の治療の方を、しっ

  かり修行して行った方がよいだろう」と言

  われる。

 

   諦めきれず、兄弟子に横文字の手ほどき

  をしてもらう。

 

   ABCから始めた。

 

   外の人なら半年か一年かかるところを、

  わずか三、四十日で覚えてしまう。

 

   それを知った玄白は、翻訳助手にする。

 

   蘭化先生へも紹介の手紙を書き、勉強が

  進むよう手助けしてくれる。

 

   蘭化も、始めは断り続けていたが、その

  熱意に負けて、

 

「これは将来見込みのある若者だ」と

 

  師弟の約を結ぶ

 

 自分の知っていることの限りを悉く授ける。

 

 磐水は、杉田、前野両先生のご恩を忘れぬため二人の呼び名の玄白と良沢との一字ずつをいただいて、

 

 玄沢と名乗った。

 

 工藤球卿は修学の期限を伸ばすため、一関侯に掛け合ってくれた。

 

 工藤球卿は外国の事情などにも注意を払っていた

 当時の先駆者の一人

 

蘭学階梯』を出版

  蘭文の読み方、解き方を説いたわが国最初

 の本

  蘭学をする人で、この書物のお蔭を受けな

 い人はいない

 

 『重訂解体新書』(ちようていかいたいしんしょ)

  両先生に頼まれて『解体新書』の誤りを正した。

 

  著述 ニ百余部に上る

  

 一関藩から本藩の仙台侯の医員となる。

 

 後に

 幕府の天文台に勤めて、蘭書の翻訳をする

 

 文政十年 三月三十日 七十一歳で亡くなる

 

 オランダ正月

  寛政六年 その年の閏十一月十一日は太陽暦では一七九四年の一月一日に当たると言うので、その日磐水は友人の蘭学者たちを大勢家に招いて、陽暦の新年を祝って、その図を画家に描かせた。

 

 この絵は、今も残っている。

  早稲田大学図書館所蔵

 

 それから「新元会」と名付けて毎年続けた。

 「オランダ正月」とも呼ばれた。

 

 磐水の家は、江戸時代には珍しい三階建てだった。そのまま残されている。

 

 明治九年は、磐水先生の没後五十年に当たるというので

 東京の大槻家で

 追悼の祭典が営まれた。

 

 

 当時の蘭学者たちの学問に対する真摯さと、情熱を書いて残された 森 銑三先生にも感謝の気持ちを捧げます。

 

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参考図書

 「オランダ正月」 森 銑三 著

          小出昌洋 編

 

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