私は、キリスト教信者でも、その関係者でもない。でも自分なりの信仰は持っていると思う。
この言葉を覚えているのは、作家の曽野綾子氏が「これは、生きていくための、人間としてギリギリの決断だ」と書いておられたからだ。この通り書いてあったかは自信がない。それを読んだ本を探し出せないないので、私の意訳だ。申し訳ない。お許し願いたい。
なぜ、ハッとしたかというと、「罪を憎んで人を憎まず」なんて、当たり前過ぎて、小学生でも知ってるわ、くらいの考えだったので不意を突かれたのだ。
「生きていくための決断」?
そう言えば、深く考えたことはないな、でも、よくよく考えてみたら、そういう深い意味があるのかと軽く頭を叩かれた感じだった。
飴玉を盗まれた、くらいのことなら簡単だが、大事な娘を殺されたとしたら、それは到底許しがたいことだろう。
ここは砂漠、私はまだ幼い子を2人連れている。犯人の道案内の男を殺したら、旅は続けられない。他の子供の命も危くなる。というシチュエーションだとしたらどうだろうか?
涙をのんで、「罪を許す」ことにするかも知れない。下手な例えだが、こういうことだろうか?
考えてみれば、この様なことは、生きていたら、大なり小なりによくあることだ。
笑って許せることもあれば、涙を呑んで自分を納得させることもある。
人は、ひとつひとつ、命をかけて許すことを決断しているのだ。
これは、人間についての深い思索から出てきた知恵だと思う。
やさしそうなものほど、実は奥が深い。
曽野氏の軽い拳骨は、快い目覚ましとなった。