emilyroom’s diary

徒然なるままにブログ

罪を憎んで人を憎まず  forgive

 私は、キリスト教信者でも、その関係者でもない。でも自分なりの信仰は持っていると思う。

 この言葉を覚えているのは、作家の曽野綾子氏が「これは、生きていくための、人間としてギリギリの決断だ」と書いておられたからだ。この通り書いてあったかは自信がない。それを読んだ本を探し出せないないので、私の意訳だ。申し訳ない。お許し願いたい。

 なぜ、ハッとしたかというと、「罪を憎んで人を憎まず」なんて、当たり前過ぎて、小学生でも知ってるわ、くらいの考えだったので不意を突かれたのだ。

 「生きていくための決断」?

 そう言えば、深く考えたことはないな、でも、よくよく考えてみたら、そういう深い意味があるのかと軽く頭を叩かれた感じだった。

 飴玉を盗まれた、くらいのことなら簡単だが、大事な娘を殺されたとしたら、それは到底許しがたいことだろう。

 ここは砂漠、私はまだ幼い子を2人連れている。犯人の道案内の男を殺したら、旅は続けられない。他の子供の命も危くなる。というシチュエーションだとしたらどうだろうか?

 涙をのんで、「罪を許す」ことにするかも知れない。下手な例えだが、こういうことだろうか?

 考えてみれば、この様なことは、生きていたら、大なり小なりによくあることだ。

 笑って許せることもあれば、涙を呑んで自分を納得させることもある。

 人は、ひとつひとつ、命をかけて許すことを決断しているのだ。

 これは、人間についての深い思索から出てきた知恵だと思う。

 やさしそうなものほど、実は奥が深い。

 

 曽野氏の軽い拳骨は、快い目覚ましとなった。